こうした安倍政権と極右陣営による“天皇に弓を引く”行為については、リベラルな専門家からだけでなく、民族派に近い右派論壇からも批判が相次いだが、直近では、毎日新聞編集局編集委員の伊藤智永氏の論説が白眉と言える。伊藤氏は「サンデー毎日」(毎日新聞出版)2月12日号で、政権がねじ込んだ渡部氏らに代表される“退位反対論”について「思っていた以上に御都合主義で知識も浅薄」として、苛烈かつ的確に指摘している。
〈「祈っていればいい」というが、現在のような充実した祭祀の内容で天皇が祈るようになったのは、たかだかここ200年くらいのことにすぎない〉
〈お言葉が「違憲行為」とは、言いも言ったりである。
いわゆる「保守」派は、現憲法に成り立ちからして否定的なはずだが、憲法順守を即位以来の原則に掲げる陛下を、認めていない憲法に依拠して批判するとは、どういう論理構造なのか。必要な時だけ憲法をつまみ食いする御都合主義でなくて何だろう〉
〈お言葉問題は、安倍政権の時代に跋扈している「保守」の概念が、いかに当てにならないかを明らかにしてくれた〉
まったく同意する。伊藤氏は「おことば」のメッセージを、川柳風に「漫然と ただ在ると思うな 象徴制」と表現するが、本サイトなりにこれを継ぐと、結局のところ、生前退位をめぐる問題は“政治が天皇の意思に対してどう対処するか”という小さな話ではなく、本質はやはり国民の側にある。
つまり、立憲民主制の主語としての国民が、天皇・皇室という制度の存続を望むのならば、それはわたしたちの意思を反映させるかたちで、少なくともこの設計を現代の民主主義に適合させる必要があるのではないか、ということだ。
当然、そのなかには女性・女系天皇を巡る議論もあるだろう。世襲制の問題もあるだろう。そして、言論や職業選択のほか、ありとあらゆる人権が極めて制限されている天皇や皇族の人間性について、本当にこのままでよいのか、ということも国民が広く議論させねばならない。この天皇の人権問題については、別の機会に詳しく論じたいと思うが、少なくとも、周知の通りこの国は、基本的人権の尊重と法の下の平等を謳っている。あるいは、そのことを意図的に忘却することで初めて、天皇制は成り立っているとも言えるだろう。
いずれにせよ、大多数の国民の意思を無視して、一代限りの特別法を今国会で強行しようとしている安倍政権のやり方は論外だ。国会が国民の代表ならば、わたしたちがとるべき態度は「天皇がこう言っているから」ではない。「国民として天皇制をどうしたいのか」という能動的な姿勢だ。そのためにもやはり、安倍政権の方法には異を唱え続けなくてはならない。
(梶田陽介)
最終更新:2017.11.16 12:15