満州官僚時代に軍部と結託してアヘン取引に手を染め、アヘンを求めて中国領土を侵す軍をバックアップし続けた。取引で得た巨額の利益を戦費に回し、一部を政治資金として活用して軍国主義者の象徴といえる東条英機を首相にまで昇りつめさせた。さらには東条の片腕として商工大臣、軍需次官を務め、国家総動員体制、大東亜共栄圏の自給自足体制の確立を遂行するなど、戦時日本の寵児として辣腕を振るった。岸が戦争遂行の中枢にいたことは疑いようがない。そんな岸を戦勝国が犯罪者リストから外すわけがないのである。
にもかかわらず、岸は満州時代の盟友・東条英機の絞首刑が執行された翌日の1948(昭和23)年12月24日に不起訴処分で釈放された。東条の絞首刑と岸の生還、明暗を分けたというには余りにも落差の大き過ぎる結末だった。
あるいは岸の満州時代の上司であり、東条内閣では内閣書記官長として共に支えてきた星野直樹は終身禁固刑に処せられた。満州では岸は星野よりはるかに手を汚し、閣僚として戦争遂行にかかわった度合いも、岸のほうが大きかったはずである。当然、研究者やジャーナリストにとってもこの処遇の違いは興味の対象となる。岸はなぜ、戦犯を逃れたのか。
ひとつは、岸がもともと用意周到でなかなか尻尾がつかめない存在であることがあげられるだろう。有名な「濾過器発言」にその片鱗が垣間見られる。岸は1939(昭和14)年10月に満州を離任する際、数人の後輩たちを前にこう語っている。
「政治資金は濾過器を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過器が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから、かかわりあいにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」
要は、証拠を残すなということであり、嫌疑に対して敏感になれということでもある(実際、岸は東条内閣時代に書いた書類をすべて焼却してしまっている)。
だが、それだけでは訴追はまぬがれない。岸はアメリカに対して具体的な“工作”を行っていた。そのひとつは再びアヘン絡みの話だ。東海大学名誉教授、太田尚樹氏の著書『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』(講談社文庫)に元ハルピン特務機関員の田中光一のこんな証言が載っている。
「麻薬はどこの国でも最大の関心事でした。もちろん、アメリカだってそうです。戦後、GHQが克明に調査して関係者に尋問したのに、まったくと言っていいほど処罰の対象に指定しなかったのは、不思議だと思いませんか。あれは明らかに、情報提供の代償となったからです。甘粕はもうこの世にいませんでしたが、里見、岸なんかが無罪放免になったのは、そのためなんです。エッ、東条にはどうかって? 彼は直接戦争責任に結びつく訴因が多過ぎて、GHQは阿片の件で取り調べるだけの時間がなかったのです。アメリカは裁判を急いでいましたからね」
証言に出てくる「里見」とは、里見甫のことだ。「アヘン王」と呼ばれた陸軍の特務機関員で、上海を拠点にアヘン取引を仲介していた。岸とアヘンの関わりを調べる中で繰り返し出てくる名前でもある。千葉県市川市にある里見の墓の墓碑銘を揮毫したのが岸だったことは前回、紹介した。その里見も戦後、A級戦犯容疑者として逮捕されている。そして、田中の証言通り、不起訴者リストの中に「里見甫」の名前は載っていた。