ところがドラマではこうした視点は一切ない。こうした数々の問題について小榑氏はNHKの担当者に「“わかりやすいストーリー”でやるのであれば、『協力できない』」と伝え、一部設定が変更されたこともあったが、その後は出版指導としてドラマテロップに連ねていた自身の名前を途中から抜いてしまったほどだ。
そう考えると花森のスカート装着問題や、常子と花山の関係、商品テストの反響など細かい差異を関係者や「暮しの手帖」古参読者が指摘する背景には、花森の本質というべき“反権力”という根本的思想が描かれていないことへのフラストレーション、批判が内在していたといえる。
その証拠に『とと姉ちゃん』でプロデューサーを務める落合将氏が「Yahoo!個人」インタビューで「暮しの手帖」を“モデル”ではなくあくまで“モチーフ”にしたとしてこんな発言をしている。
〈――花山のモチーフになった花森安治さんに忠実に描いてしまうと彼の思想的なことが入らざるを得なくなりますよね。
落合 そこは正直、微妙です。花森さんはわりと反権力的な方で、政治や政府にも一家言があったとされている。そこを朝ドラでストレートにやるにはなかなかハードルがある〉
ドラマにしておきながら「花森安治の思想は正直、微妙」って……。だったらなぜモチーフにしたのかと問いたくなるが、要するにそもそもNHKは花森の反権力というジャーナリストとしての思想を描くつもりなど毛頭なかったのだ。
こうした経緯を踏まえた上で小榑氏が指摘するのが花森、そして「暮しの手帖」のジャーナリズムとしての姿勢だ。
小榑氏は「権力の番人」というジャーナリズムの基本について“中立はない”としてこう断言している。
「当時、『暮しの手帖』には中立というものがなかった。庶民の立場に立って、こうなってはいけないと思うから発言する。『ジャーナリストは命がけなんだ』『牢獄に入ってもよい覚悟があるか』と花森さんによく言われました」
“ジャーナリズムに中立などない”。確かにこの小榑氏の指摘はあまりに重要だ。
とくに安倍政権発足以来、公平性や中立といった言葉を権力が恣意的に解釈することにより、日本のメディア、ジャーナリズムはそれに屈し、萎縮や自粛を繰り返してきた。