同時期の別の記事には、こんな言葉もある。
「女性(政治家)の主張は教育、福祉、環境に偏りがち。だがどの分野にもお金が絡み、税制改革や景気浮揚なくてはできない。私にはバランス感覚がある」
自分は従来の、そこいらの女性政治家とは違うと言っているのだ。予算や税制を動かす、より権力の中枢に近いところを目指しているのだ、と。そんな彼女の言葉を受けて、選挙区の有権者である女性がこう語っている。
「(政界に)女性が増えるのはうれしいが、旧態依然とした“政治屋”になる人もいる。女性だからといって投票することはない」
その2年半後、思惑通り自民党入りした小池氏は、今度はボスを小泉純一郎氏に乗り換え、2005年の郵政選挙で「刺客」として東京10区へ鞍替えする。そこから先の環境大臣、防衛大臣、自民党広報本部長、党総務会長……と続く出世双六と、このたびの都知事選への転身の経緯は、最近の報道でよく目にする通りだ。
政治家である以上、権力の中枢を目指すのはある意味当然であろうし、時どきの情勢によって誰とでも手を組み、「政界渡り鳥」と揶揄される振る舞いも、それだけでただちに非難されるべきことではないのかもしれない。ただ、これほど権力志向が強く、マッチョな思想の持ち主が、今回はなぜ、「女性だから」「自民党と戦っているから」という理由だけで、「リベラルでソフトな改革派」のイメージを獲得できるのか。その点は少し考えた方がよさそうだ。
昨年末までの8年間、大阪を席巻した「橋下現象」を観察してきた私としては、両者に共通する構図があるような気がする。
守旧派のドンが支配する議会。それと結託して既得権益を固守する役所、さらには労働組合。そういうズブズブのドロドロが固着した既存の体制をぶっ壊し、一掃してほしい。大阪の場合なら「役人天国」と呼ばれた公務員の腐敗を懲らしめてほしい、東京なら前任の猪瀬氏や舛添氏のような、いわゆる「政治とカネ」問題を二度と許すまい。橋下徹氏も、小池氏も、そういう不正への怒りと改革志向に押し上げられた。
政策の中身よりも政治家としての資質。過去の言動や実際の思想よりも、旧体制に立ち向かう姿勢や語り口。彼らが歯切れよく訴える「カイカク」の中身がなんであれ、その響きはとりあえず、マスメディアや無党派層にウケがいい。偽装であったとしても、そのポジションを首尾よく獲得し、イメージをうまく作ったほうが勝つのだ。