しかし、である。古舘がそうした選択を行ったことで、この国の言論状況は確実に後退している。実際、古舘を失った『報ステ』は、スタッフが粘りを見せつつも、コメンテーターの後藤謙次が政権に尻尾を振るようなコメントを連発することで“両論併記”を担保する、歪な番組になってしまった。そのことについて、古舘はどう思っているのだろうか。
古舘は『ぴったんこカン・カン』のなかで、最後にこんな気持ちを洩らしていた。
「あまりにも今日、嬉しすぎて、苛まれたんですよ。バラエティ復帰と言われて嬉しいし、これから復帰していきたいっていう気は満々なんですよ。だけど、12年間、さんざん僕は打たれて批判もされてきた。だけど、やっぱりね反面で、12年間で『お前の放送はいいよ』と、『お前のニュース聞きたいよ』って言ってくれた方もたくさんいらっしゃって、そういう人が、僕がきょうあまりにも『楽しい、楽しい』ってやってるのをチラッとでも見たら、どんな気持ちだろうなって。申し訳ない気がしてきた」
こうした後ろめたさを感じているということは、古舘も、この国が報道の危機にさらされているなかでそれを捨てたことの意味を理解しているのだろう。
古舘は前述の朝日新聞のインタビューで、「テレビという情動のメディアで、反権力、反暴力、反戦争という姿勢は持ち続けようとやってきた。その自負は、あります」と語っている。そうした気概をもった人物がいまこそ必要なのに、またそのこともよくわかっているのに、人畜無害なバラエティの世界に舞い戻ってしまった。いちばんの問題はキャスターを追い込む政権にあることは明白だが、それでも、古舘が「国民の知る権利」に背を向けてしまったことには大きな失望を感じずにはいられないのだ。
(水井多賀子)
最終更新:2017.12.05 10:02