彼は人生を通じて継続的に戦争に関するマンガを描き続けた。それは、マンガ家としてのキャリア最初期、貸本マンガに作品を描いていた1950年代にまで遡る。なぜ彼はそこまで戦争にこだわり続けたのか。そこには、死んでいった仲間たちへの思いがあった。
〈やっぱり死んだ人ですよ、私は戦後二十年ぐらい人にあまり同情しなかったんです。戦争で死んだ人がいちばんかわいそうだと思ったからです〉(足立倫行『妖怪と歩く』文藝春秋)
〈ぼくは戦争ものをかくとわけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う〉(『総員玉砕せよ!』講談社)
幸いなことに、戦死こそしなかったものの、水木の戦争体験もかなり悲惨なものだ。彼はニューブリテン島ラバウルの激戦地に送られ、爆撃により左手を失って復員しているが、彼が残した戦争中のエピソードを読んでいると、生きて帰ってこられただけでも奇跡としか言いようのない体験も多く経験してきている。例えば、不寝番で兵舎から離れていたところを敵の奇襲にあい、彼の所属する分隊が全滅したというエピソードはマンガや随筆のテーマとしてたびたび取り上げられた。もしも不寝番の担当が違う時間帯であったら、彼は生きて日本に帰ることはできなかったかもしれない。
水木しげるの戦争マンガで取り上げられる戦争には「勇ましさ」がまったくないというのが特徴的だ。彼がマンガに描いたのは、一貫して「負け戦」であった。水木は上官たちにいじめ抜かれる兵士や、戦争末期の日本軍が人の命を物のように扱った理不尽な行いなど、軍隊の暗部を描き続けた。ここで描かれているのは、いわゆる「戦記もの」のマンガが描くような、勇ましい軍隊ではない。みじめで格好悪い兵士たちの姿である。水木しげるが貫いたこの姿勢は、当初読者から芳しい反応を得ることができなかったようで、「負け戦では売れない、勝たなくてはダメです」と忠告を受けたこともあるようなのだが、彼は生涯その姿勢を崩すことはなかった。そして、こんな言葉を残している。
〈戦記ものと称する一連のマンガ「0戦はやと」とか「紫電改のタカ」「我れは空の子」での一発の銃はなんのために発射するのか、というと、自分の身を守るためで、いわば冒険活劇漫画であって、本来の意味での戦争マンガというものではないだろう。とにかく戦争のオソロシサは少しもないし、万事つごうよく弾丸がとび、考えられないほどつごうよく飛行機もとんで万事めでたい。食料なんかも常にあり、感激ありで、読んでいるものは戦争を待望したくなるくらいだ。(中略)しかし、ぼくは、本当の戦記物というのは「戦争のおそろしいこと」「無意味なこと」を知らせるべきものだと思う〉(「朝日ジャーナル」1973年7月27日号/朝日新聞社)
〈自分としては、下級兵士たちのカッコ悪い日常を描くことで意味もなく死んだ彼等の無念さを伝えたいと考えたのです〉(朝日新聞1974年4月10日)