〈私の祖父は与那国島出身なので大きな被害はなかったようですが、とはいえ食べ物は全くなかったようですし、祖母は糸満から那覇にかけての地上戦がもっとも酷かった地域で戦争を体験しています。母は返還前に生まれているので、返還前の様子を知っています〉(「文學界」文藝春秋/15年9月号)
家庭ではこのような戦争に関わる話を聞くこともあるし、学校では戦跡をめぐり戦争について学ぶ平和学習もたくさん受けてきた。しかし、あまりにも凄惨でリアル過ぎる戦中体験の話は、彼女にとって逆に戦争を「自分と同じ人間が、その戦禍を生き抜いていた、という当たり前の事実をなかなか実感でき」ないものにしてしまい、「同じ日本人なのに、なんだか同じ人間だとは思えなかった」というほど、縁遠いものにさせてしまった。平和学習で二階堂はこんなことも思ったという。
〈小学6年生の時に、元ひめゆり学徒隊だった女性の証言を聞いたんです。それがあまりにもリアルで、正直とても怖くなって、最後には引いてしまいました。平和教育とはいえ、小学生の女の子にあの生々しい話は酷すぎると思いました〉(「AERA」朝日新聞出版/15年8月10日号)
そんななか、彼女に「戦争の理不尽さや、戦争の悲しみというものを身近に感じ」させるきっかけとなったのが、茨木のり子の詩『わたしが一番きれいだったとき』であった。
〈わたしが一番きれいだったとき/街々はがらがら崩れていって/とんでもないところから/青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき/まわりの人達が沢山死んだ/工場で 海で 名もない島で/わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった〉
この『わたしが一番きれいだったとき』は、映画『この国の空』でも二階堂が詩の一節を読み上げる印象的なシーンのフックとして使われている。彼女は茨木のり子のこの作品に出会ったときの思い出をこう話している。
〈中学生の時にこの詩に出合って、初めてその時代を生きた人の気持ちに触れることができたんです。私自身、誰かを好きになることも、生きることもまだ分からない年齢だったけれども、この詩を読んで初めて戦争を自分事として受け止めることができたのです〉(「AERA」朝日新聞出版/15年8月10日号)