だが、それだけでは訴追はまぬがれない。岸はアメリカに対して具体的な“工作”を行っていた。そのひとつは再びアヘン絡みの話だ。東海大学名誉教授、太田尚樹氏の著書『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』(講談社文庫)に元ハルピン特務機関員の田中光一のこんな証言が載っている。
「麻薬はどこの国でも最大の関心事でした。もちろん、アメリカだってそうです。戦後、GHQが克明に調査して関係者に尋問したのに、まったくと言っていいほど処罰の対象に指定しなかったのは、不思議だと思いませんか。あれは明らかに、情報提供の代償となったからです。甘粕はもうこの世にいませんでしたが、里見、岸なんかが無罪放免になったのは、そのためなんです。エッ、東条にはどうかって? 彼は直接戦争責任に結びつく訴因が多過ぎて、GHQは阿片の件で取り調べるだけの時間がなかったのです。アメリカは裁判を急いでいましたからね」
証言に出てくる「里見」とは、里見甫のことだ。「アヘン王」と呼ばれた陸軍の特務機関員で、上海を拠点にアヘン取引を仲介していた。岸とアヘンの関わりを調べる中で繰り返し出てくる名前でもある。千葉県市川市にある里見の墓の墓碑銘を揮毫したのが岸だったことは前回、紹介した。その里見も戦後、A級戦犯容疑者として逮捕されている。そして、田中の証言通り、不起訴者リストの中に「里見甫」の名前は載っていた。
つまり、岸や里見はアメリカにアヘン情報を提供する見返りに戦犯訴追を免れたというわけだ。
もうひとつ、岸には戦争責任逃れのための「東条英機裏切り」工作というのも指摘されている。満州の関東憲兵隊司令官だった東条英機が中央に戻り、陸軍次官、陸軍大臣、首相へと上り詰める原動力になったのが、岸がアヘン取引で得た豊富な資金だったことは前回書いた。岸は東条内閣を商工大臣、軍需次官として支え、戦争を主導した。ところが戦争末期にこの仲が決裂する。それどころか、岸VS東条の対立がもとで内閣が崩壊してしまったのだ。
毎日新聞に掲載された「岸信介回顧録」(1977年5月11日付)によれば、岸は〈サイパン陥落のあと「この戦争の状態をみると、もう東条内閣の力ではどうしようもない。だからこの際総理が辞められて、新しい挙国一致内閣をつくるべきだ」ということでがんばった〉という。
そして、東条内閣は瓦解。下野した岸は郷里に帰り、防長尊攘同志会をつくって、引き続き「打倒東条」の政治活動を続けた。