こうした嫌悪感をもっているのは彼女だけではない。「不完全」というファンタジーは、アイドルと同性の、リアルなかっこよさや可愛さ、モテを求める女の子たちからはまったく支持を得ることができていないのだ。
映画評論やアイドル評論で定評のあるミュージシャンの宇多丸は著書『ライムスター宇多丸の「マブ論CLASSICS」―アイドルソング時評2000-2008』(白夜書房)のなかで、同性から見た女性アイドル像についてこう指摘している。
「80年代半ば以降、女性アイドル歌手は「いま一番イケてる女の子」像の体現者たり得なくなり、好事家向けのファンタジーに閉塞していった……という事実の、最も分かりやすいバロメーターは、「同性の模倣率」でしょう。モテたいから「ジャニーズっぽい」髪型にしました、という男の子は無数にいても、同様の動機を抱いた女の子がその際に参照する対象は、間違ってもモーニング娘。や松浦亜弥では――その全盛期でさえ――あり得ないわけです。かつては例えば、それこそ「聖子ちゃんカット」や“ぶりっこ”な振る舞いまでもが(散々揶揄されながらも)その世代の標準装備になったりもしていたのとは隔世の感……」
そういう意味では、鈴木涼美の「気持ち悪い」は「リア充女子」がもつ典型的な感情なのだろう。
あるいは、そこにはフェミニズム的な視点も入っているかもしれない。彼女の著書『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』(幻冬舎)のなかに、元カレと別れた鈴木に対して、母が「嫌いだよ、オトコって。なんだかんだ。自分より経験がある女も、自分より恵まれた環境にいる女も、自分よりアタマがよい女も」と、彼女が恋人より高いスペックをもち、なおかつそれを彼に劣等感を与えるぐらい表に出し過ぎたからだと諭すシーンが出てくる。
自分のことを「スペックが高い」と言う母親の言葉に説得されるというのもスゴいが、たしかに知性や教養、サブカルや性的過激さをもつ女性のことを拒否する男性の保守的メンタリティへの苛立ちのようなものは理解できる。
だが、一方で、鈴木の主張は文化論としてはやや乱暴ではないか、という気もするのだ。そもそも、不完全なもの、アンバランスなものが大衆に愛されるというのは、この時代のアイドルにはじまったことではない。西洋の近代絵画や日本の浮世絵でもしばしば見られた現象だし、吉永小百合からはじまって、天地真理や山口百恵など、社会現象を引き起こした女優、アイドルのほとんどはいわゆる「パーフェクトな美人」ではなかった。