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元AV女優の社会学者・鈴木涼美がAKBファンは「気持ち悪い」「指原より私のほうが可愛いし」

 むしろ、「不完全さ」はいつの時代も、美の価値を最後の最後、もうひとつ上のレイヤーに押し上げる重要なファクターになってきた。前述の宇多丸の著書でも、対談相手の小西康陽が、その「不完全さ」を「ほつれ」と表現し、こう指摘している。

 宇多丸「いまや歌声なんて、コンピューターでいくらでも正確に直せるじゃないですか。そこで、ある程度直したとしても、「直し過ぎない」っていうのは意識されてたりします?」
 小西康陽「しますね。やっぱり、完成度の高いものの中に、生身の女の子の「ほつれ」っていうかさ、そういうのがあるから、それがいいわけでしょ。僕はそこに一番美しいものを見出すんですよね」

 彼女のいたAVの世界だって、不完全なものがもっとも大きな興奮をもたらすという逆転現象が日常的に起きている場所だ。その逆転の現場をその目で見ている彼女がなぜ、こんなことに気づかないのか。最初は、不思議でしようがなかったのだが、読み進めていくうちに、その謎が少し解けた気がした。

 それは、団子っ鼻で、脚がやや太くて、眉毛の形がいびつなAKBの対極として、彼女があげた「パーフェクション」の象徴が「浜崎あゆみ」だったからだ。

〈肌は陶器がごとく何の緩みもなく、ほぼ左右対称で、眉毛も唇もそこ以外置く場所が思いつかない場所に配置されている。「私だったらもっとこうする」とか「私はもうちょっとここがこうなってるほうが好き」とかいうコメントを一切排除する。〉

 ん? 浜崎あゆみって、そんな完璧だったっけ。筆者の印象はむしろ、それこそ足は短いし、たれ目な上に目と目が離れていて、鼻腔がやや開き気味で、宇宙人みたいな声を出し、いい歳して自分のことを「あゆ」という。そして『Trauma』なんていうどストレートな欠落の歌を好んで歌う、そんなイメージなのだが……。

 いや、別にあゆのことをけなしているわけではない。そうではなく、浜崎あゆみもまた「不完全さ」でファンを惹き付けているアーティストの一人であるのに、それを無自覚に「パーフェクション」だと言ってしまう、そんなところに、鈴木涼美の自意識を感じ取ってしまったのだ。

 そして、社会学的な分析とはまったく関係なく、その自意識が彼女をしてAKBファンを「気持ち悪い」と言わしめているのではないか、と。

 もちろんこれは批判ではない。ポストモダンの影響が色濃く感じられるあんなスノッブな文章を書きながら、あゆを神と仰いでしまう実存。それこそが鈴木涼美を凡百の社会学者の枠からはみ出た、特別な存在に押し上げているのだろう。今はけっこう本気でそう信じている。
(本田コッペ)

最終更新:2016.08.05 06:52

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