本書では、組体操や柔道事故の議論の他に、「1/2成人式」「部活動顧問の過重負担」なども詳しく議論されている。著者は議論に持ち込んでいないが、本書で取り上げられた教育現場の諸問題を知るにつけ、18年度から教科化される「道徳」との絡みが否応にも気にかかる。ひとまずは、それぞれの成績表に5段階などの数値ではなく記述式で評価されることになる。昨年11月、中教審が下村博文文科相に提出した答申では「指導要領に『誠実』『正義』などのキーワードを明示して分かりやすく」(47NEWSより)してほしいと申し出たし、第一次安倍内閣が発足させた「教育再生会議(現・教育再生実行会議)」では、07年の報告書で「感動を与える教科書を作る」と本音が見え透ける言葉を入れこんでしまっている。
つまり、道徳の教科化やあるべき教科書が議論されるなかで、「正義」「感動」といった言葉を機能させようとしているのだ。言うまでもなくこれらには、内田氏の「『感動』や『子どものため』という眩い教育目標は、そこに潜む多大なリスクを見えなくさせる」という懸念をそのまま向けたくなる。
今やこの眩い目標は教育現場だけではなく、国家の最たるところでも使われている。例えば、4月、米国連邦議会上下両院合同会議における安倍内閣総理大臣演説は、「力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありませんか。希望の同盟。一緒でなら、きっとできます」で締めくくられた。ロジックよりもフィーリング。なんとも「巨大ピラミッド的思考」ではないか。
教育の場で繰り返される「ジャスティス」。今こそ、その「ハイ」をクールダウンさせるべきだろう。確かにスポーツに「気合」は大事だ。アドレナリンが出て、成果が突出することもあるだろう。しかし、その「気合」は時に人を傷つける。ならばそちらをケアしなくてどうする。内田氏の冷静な分析が、教育現場に蔓延る無自覚の病理をあぶり出している。
(武田砂鉄)
最終更新:2015.06.16 05:23