確かに今の国会では、自衛隊員の戦死が“タブー”であるかのように曖昧な議論が行われている。しかし齋藤は“戦死”を前提とした議論をすべきだという。さらに“戦死”の後のことにも言及する。
「(戦死の議論が出ると)では靖国神社に祀るのかという質問する人もいるが、そうじゃない。皆、宗教を持っていたりいろいろある。そういうものに影響されないナショナルセメタリー(国立墓地)、そういうものまで含め少し考えていくべき」
“戦死”の覚悟なくして、安保法制はあり得ない。自衛隊を海外派兵させるのは矛盾がある。“戦死”を前提に、さらには戦死した自衛隊員を“安置し祀る”墓地まで議論しないといけないと齋藤は主張するのだ。
安倍政権にとって齋藤の言う戦死議論は最も避けたいものだろう。その最大の理由は戦後、国会だけでなく国民のなかでもこうした議論はほとんどなされてこなかったし、また“自衛隊員戦死”などというコンセンサスなどまったくないからだ。
その理由も安倍政権自体に存在する。今の日本でこれを正面からやれば安保法制どころか、政権の危機に陥るだろう。そして安倍政権に懐柔され、そのスポークスマンと化したマスコミもまた、戦死リスクをきちんと取り上げることはない。
こうした議論を曖昧にしたままに、安保法制を通そうとしているのが、安保法案の恐ろしさであり安倍政権の欺瞞なのだ。
確かに齋藤が言うように、こうした戦死議論なくして安保法制を安易に通してしまっていいはずがない。安倍首相は安保法制が正しいというなら、堂々と戦死議論をすべきなのだ。
問題は戦死だけではない。先ごろ防衛省による自衛隊員の自殺数に関してのまとめが公表されたが、インド洋での給油活動とイラク復興支援に派遣された自衛隊員のうち、56人もが派遣後、在職中に自殺したという。