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軍の命令で米兵捕虜を生きたまま解剖…70年目に明らかになったあの戦争の“真実”

 1945年5月、阿蘇山中にB29が墜落、搭乗員11名のうち2名は村人になぶり殺され、残りの9名は福岡の仮設収容所に入れられた。後に機長だけが東京に送られたが、その理由は、大本営から「飛行機の操縦士および情報価値のある捕虜のみは東京に送るべし。以下は適当に処置せよ」と指令が下っていたから。そう、実力者以外は「適当に処置」しなければならなかったのだ。

 当時、九大医学部では軍からの依頼で代用血液の研究が進んでいた。本土決戦の日も近いとされるなかで、その研究が急がれていた。小森軍医見習士官と石山福二郎教授が捕虜による生体実験を画策、大学内では公然の秘密として、実施に向けての動きが早まっていく。1回目の実験手術では、1人の飛行士には「治療をするため」、もう1人の飛行士には「正式の捕虜収容所に移す前に予防注射をするため病院に移送する」と嘘をつき、目隠しをし、手錠を掛け、手術台まで移送される。

「着剣し参謀憲章をつけた高級将校」の2人が立ち会うなかで、胸膜が開かれ、右肺全部が切り離され、代用血液である海水が、弱った飛行士に注射される。小森見習士官が「生かしていくわけにはいかなかった」と後に語ったように、今にも呼吸が止まりそうな飛行士に対して、わざわざ「縫合した糸を切りほどいて傷口を再切開した」という。

 執刀の補助をしていた鳥巣助教授は「肺の切除をやる必要があるのだろうか?」と不審に思ったが、口に出すことなど許されなかった。2回目の手術の時、鳥巣は意を決して手術について問い質すと、石山教授から「この手術は自分が軍から直接依頼を受けてやるのである。君らはわしの命令に従えばよいのだ。あれこれ言う立場ではない」と叱責されてしまう。その日の手術では、胃を全摘、心臓を露出させて切開・縫合を行なった。この日も室内には参謀将校が、ドアには武装兵士がおり、事の流れに従うしかなかった。

 ほどなくして終戦を迎えると、仮設収容所に残っていた捕虜は残らず惨殺された。著者は、この事実こそ「生体実験が軍の行為であったという証拠」だと指摘している。ポツダム宣言第10条にある「日本の捕虜になっている者に対して虐待を加えた者を含む総ての戦争犯罪人に対しては厳格なる裁き」の適用を逃れようと、捕虜殺害は隠蔽された。やがて石山教授が自殺し、新聞報道で捕虜殺害が明らかになると、どこからともなく「鳥巣先生は石山教授の第一助手だった」との声が高まっていく。

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