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また作家タブー! 曽野綾子のアパルトヘイト発言を出版社系週刊誌が全面擁護

 この放送でも、やはり曽野氏は「週刊文春」でも述べたように、「これは差別じゃない、区別なんですよ、能力のね。だから差別と区別を一緒にしないでいただきたい。私は区別をしつづける」と強調。この曽野氏の主張に対し荻上氏は、「差別と区別が違うと言ったときに、こうしたフレーズを、じつは差別者の側が意図的にというか狡猾に使うような場合もあってしまうわけですよね」と諭すように切り返した。だが、曽野氏はまったく怯まず、こう返答するのだ。

「でも、私は私の言葉の使い方をしつづけるだろうと思います。しょうがない。いま、ここで区別が差別になって、差別が区別になったって言われても、私の文学が成り立たない。ですから、私が死ぬのを待っていただきたい」

 なんと見事な開き直りだろう。しかし、曽野氏が死ぬのは勝手だが、「差別でなく区別だ」という中学生のような言い訳はなんの意味もない。それこそ、差別主義者の常套句ではないか。

 2009年から10年にかけて「在日特権を許さない市民の会」(以下、在特会)が京都の京都朝鮮第一初級学校近くで拡声器を使い「朝鮮学校を日本からたたき出せ」「スパイの子ども」と連呼し、授業を妨害したとして学校法人京都朝鮮学園が在特会を訴えるという訴訟が起こった。一審は「人種差別撤廃条約で禁じる人種差別に当たる」として在特会側に「学校の半径200メートル以内での街宣禁止と約1200万円の賠償」を命じたが、在特会はこれを不服として控訴。控訴審で在特会は「国籍による区別を主張しており、人種差別にも名誉毀損にも当たらない」と抗弁していた。「差別ではなく区別だ」と主張していたのだ。だが、大阪高裁は「差別意識を世間に訴える意図で行われ、公益目的は認められない」として控訴を棄却している。

 曽野氏の主張は、この在特会の裁判での抗弁と同じだ。差別主義者はそうやって、差別を区別だと一方的に言い張る。だがそれは、たんなる言葉のすり替えにすぎない。

 そもそも、あらゆる差別は区別することから生まれている。そして、区別することで優位に立つ人間はその正当性を説いて、あたかもそれが自明であるかのように信じこませる。そうした過去の権謀術策によってつくりあげられた区別という名の差別を崩していくことなくしては、社会的共生などあり得ない。

 それでも、「差別ではなく区別」などとのたまう曽野氏を出版社は擁護し、文部科学省は曽野氏の文章を道徳教材にする。……この現実に、憂鬱な気分になるのは筆者だけではないはずだ。
(水井多賀子)

最終更新:2017.12.13 09:38

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