本書は冒頭から「倫理性という観点から長州テロリストの犯罪を列挙し、百四十五年にわたってそれを包み隠してきた「官軍教育」(=現在の歴史教育)を否定」することを宣言する。
学校では、長州の「維新の志士」たちが近代日本の扉を開いたと教わるが、著者によれば、長州は黒船来航以降、開国路線に舵をきろうとした江戸幕府に反目し、攘夷を唱えた首謀者だという。そして、維新志士たちは大義名分をいいことに、さまざまな「テロ」行為を繰り広げていたと、その犯罪を列挙するのだ。
「桜田門外で水戸脱藩のテロリストと薩摩藩士に暗殺された大老井伊直弼の彦根藩ゆかりの者の暗殺(長野主膳の家族など)」
「おなじく彦根藩ゆかりの村山可寿江の生き晒し(女にも容赦しなかった)」
「京都町奉行所与力やその配下の暗殺(賀川肇など)」
「幕府に協力的とみた商人への略奪、放火、無差別殺人」
「佐幕派とみた公家の家臣たちの暗殺(あまりに多数。これらは公家に対する脅し)」
「儒学者の暗殺(儒学社池内大学など)」
「その他、仲間内でハクをつけるための無差別殺人」
これらを実行したのは、圧倒的に長州の荒くれ者たちが中心だったという。「彼らのやり口は非常に凄惨で、首と胴体、手首などをバラバラにし、それぞれ別々に公家の屋敷に届けたり、門前に掲げたり」していたそうだ。
まあ、これが有名な「天誅」ってやつなのだが、現代の感覚で見ると、その行為はイスラム国も真っ青の残虐さであり、著者がいうように「人道に対する罪」を犯しているとしか思えない。しかも、目的が政治的で、暴力と恐怖によってこれをなしとげようとしていたのだから、「テロ」と呼ぶのも同意せざるをえないだろう。
著者いわく、「なかでも、吉田松陰はその扇動者であり、その義弟となる久坂玄瑞は、超過激テロリストとしか表現の仕様がない存在」だった。備忘として書いておくが、つまり『花燃ゆ』の主人公・文は、「テロの煽動者」の末妹で、「超過激テロリスト」の妻ということになる。
さらに長州藩士たちは天皇を拉致しようともしていた。1864年、禁門の変(蛤御門の変)である。くだいて説明すると、その前年、長州は薩摩や会津から「長州ってさすがにヤバくない?」「キレてますよね、アレ」と陰口をたたかれ、京を追放されていた(文久の政変)。だが、長州がさらにキレるのはここからで、挙兵して京に攻め入り、御所(朝廷)に向けて大砲をぶっ放すわ、市街をだだっ広く炎上させるわと、もうめちゃくちゃにしてしまったのだ。これは、我が国の歴史上、天皇がおわすところにガチで攻撃をしかけた唯一の事件である。