あるいは、戦後歴史教育を「自虐」とする風潮に、こう反論していた。
「我々は、歴史を誇れるものも、恥ずべきことも全てを、学びうる全てを学ぶべきだ。こんな教育をしているのは日本だけであるという意見がある。(略)私はその点において“特別な国”であると思う。そしてその日本の“特別さ”において他の国より誇りを感じるのだ」
「張作霖事件、満州事変、盧溝橋事件と、目を背けたい事件はたくさんある。しかしこれを知ることで私達は人間の恐ろしさの可能性を知ることが出来る」
歴史認識についての中国や韓国の抗議を「内政干渉」とする国内の意見についても、正面きって批判していた。
「かつて日本人として戦場に行かされた人々がいる。皇民として生きることを無理矢理強要され、自分の国の言葉を奪われ、名前を奪われて戦場に行かされた人々がいる。その人々にとって日本の歴史は自分達の歴史であることに間違いはない。(略)自分の都合の良い時だけ、お前達は日本人であるとして、都合が悪くなると、外国人が干渉するなというのは、あまりに身勝手ではないか」
そして、日本国憲法については、「人類が行った一つの奇跡」と敢然と擁護したうえで、こう言い切ったのだ。
「私に愛国心があるとすれば、それはこの国の“この国は戦争をしない国であると、世界に宣言している部分”に注がれる」
こうした政治、社会問題へのアプローチを一部のマスコミも高く評価し、中沢新一との対談『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)出版も決定。朝日新聞のインタビューシリーズ「私と愛国」の第1回に起用され、06年5月からは『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』(日本テレビ)という政治バラエティも始まった。
ところが、そんな矢先に事件が起きる。太田の事務所に、長崎市長銃撃事件(1990年)を起こした右翼団体の幹部が抗議に訪れたのだ。太田がTBSラジオで「アジアへの謝罪のため靖国神社は破壊すべき」という発言をしていたとし、「真摯なる回答を求める」という抗議文を手渡したという。事務所は警察にも相談。警視庁が事務所に警備員を常駐させるように要請し、太田にも護衛をつける事態となった。
この問題については、太田側が抗議にあったような発言をしていないということで沈静化したが、その後、複数の右翼・民族派団体が太田の事務所に対して、その政治的発言に対する抗議文を送付する事態にもなっていたという。