その証言者のひとりが、朝日OBの植村隆だ。朝日記者として1990年代の初頭、韓国で名乗り出た元慰安婦の証言を最初に伝えた植村は、「慰安婦問題に火をつけた張本人」として最大の“戦犯”だと罵られている。
しかも妻が韓国人である上、妻の母が日本の戦争責任を追及する韓国の市民団体の幹部だったことから、ネットには「国賊」「反日工作員」「土下座しろ」「腹を切れ」といった罵詈雑言が溢れかえり、一般週刊誌にまで「捏造記者」「慰安婦火付け役」と名指しで攻撃された。
攻撃はメディア上だけではなかった。2014年3月に朝日を早期退職した植村は、関西の女子大に教員として再就職することが内定していたのだが、同大には嫌がらせや抗議の電話、メールなどが殺到。大学側が内定を取り消してしまう。
また植村氏は現在、札幌市の北星学園大学で非常勤講師を務めており、ここにも嫌がらせの電話やメールのほか、学生に危害を加えることを示唆する脅迫状まで送りつけられ、北海道警が捜査に乗り出す事態となった。
そればかりか、ネット上での誹謗中傷は植村の家族にまで拡大し、娘の実名や写真までさらされ、「反日サラブレッド」「自殺するまで追い込む」などと書き込まれている。
だが、植村記者はほんとうに「慰安婦問題に火をつけた張本人」だったのか。91年8月11日、たしかに、植村は韓国の元慰安婦としてはじめて名乗りをあげた金学順の証言を他メディアに先がけて報道したのは事実だ。
しかし、青木の取材によって、それはまったくたいした記事でなく、当時、ほとんど話題になっていなかったことがわかってくる。植村記者は金学順にも会っておらず、韓国で匿名の元慰安婦が証言した内容を伝えただけ。記事も大阪社会面でトップになったものの、東京本社版では翌日朝刊の4段という扱いだった。その3日後、金学順が初めて実名で名乗りをあげ、共同会見を開いて正式に告発したが、掲載したのは北海道新聞のみ、植村の朝日も含め、大手マスコミはこの会見をまったく報道していない。
植村自身も青木の取材にこう答えている。
「いまになってそういうことを言われてて、僕を批判する人たちはあの記事が『慰安婦問題に火をつける超重要なスクープだった』なんて言うんだけど、当時はスク―プとか、特ダネなんていう意識、全然ありませんでした。実際、ほとんど、関心を呼ばなかったから」
「慰安婦問題に火をつけたとか、歴史を変えたとか、そんなことだって思っていない。もしそうなら、当時のソウル支局員がもっとバタバタして記事を書いているはずでしょう」
しかも、植村が金学順についての記事を書いたのは、この少し後、もう一回だけなのである。植村が慰安婦問題について書いた記事は全部で19本だというが、この2本以外はほとんど発表記事だった。