これに対し安倍首相は「文学者である石原先生らしい指摘」「中学時代に丸暗記させられたが、すっと入らなかったことを思い出した」などと同調。「一字であっても変えるには憲法改正が伴う。『に』の一字だが、どうか『忍』の一字で…」と冗談まじりに答え、あたかも憲法改正のハードルが高すぎると言わんばかりの言い草で議員たちの笑いをとっていた。
しかし、あの石原慎太郎が日本語の間違いを指摘とは、「お前が言うな!」と失笑した文壇関係者も少なくなかっただろう。というのも、文壇では石原の文章は悪文として有名で、それこそ「“てにをは”の使い方がおかしい」「日本語がヘン」といわれているからだ。
たとえば、弟・石原裕次郎の思い出について書き下ろした『弟』(幻冬舎/1996年)。100万部を超える大ベストセラーとなった『弟』だが、書評などでも数カ所にわたって日本語の間違いを指摘されているのだ。
いくつか例をあげてみよう。
〈弟という男がいったいその芯の芯に何を備えていたのかを知れずにいたといえる〉
「知れずに」は、「知らずに」か「知ることができずに」ではないだろうか。「人知れず」とでも混同してしまったのか。
〈帰りは支流の分岐点までのべつなく船を引き摺って歩いた〉
「のべつなく」という言葉はなく、「のべつまくなし」あるいは「のべつ」のまちがいでは。と思っていたら、現在の文庫版では「のべつ」に修正してあった。
〈母が手にした白い琺瑯引きの洗面器に溢れるほど、たった今医者が瀉血した血がたわわに揺れていた〉
「たわわ」というのは、実の重さなどで木の枝や棒がしなっている様子に使うのが一般的だが、まるで実のように血がいっぱいだったということだろうか。
〈私には、弟のやがての相手の方が弟らしくも見えたし〉
裕次郎がはじめて家に連れてきた恋人が意外とふつうの女の子で「らしくない」と思ったというくだりなので、「やがての相手」というのは「やがて出会う相手」「やがて結ばれる相手」という意味なのだろう。しかし「やがて」は副詞なので、後ろに「の」をつけるこの表現は一般的とはいえない。