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憲法前文の“てにをは”を攻撃した石原慎太郎の“てにをは”がヒドい!

〈帰りは支流の分岐点までのべつなく船を引き摺って歩いた〉
「のべつなく」という言葉はなく、「のべつまくなし」あるいは「のべつ」のまちがいでは。と思っていたら、現在の文庫版では「のべつ」に修正してあった。

〈母が手にした白い琺瑯引きの洗面器に溢れるほど、たった今医者が瀉血した血がたわわに揺れていた〉
「たわわ」というのは、実の重さなどで木の枝や棒がしなっている様子に使うのが一般的だが、まるで実のように血がいっぱいだったということだろうか。

〈私には、弟のやがての相手の方が弟らしくも見えたし〉
 裕次郎がはじめて家に連れてきた恋人が意外とふつうの女の子で「らしくない」と思ったというくだりなので、「やがての相手」というのは「やがて出会う相手」「やがて結ばれる相手」という意味なのだろう。しかし「やがて」は副詞なので、後ろに「の」をつけるこの表現は一般的とはいえない。

〈それに拍車をかけたのが、学生ながらの弟の放蕩だった〉 
「学生ながらの」。言いたいことはわかるが、「ながら」の後はふつう「の」でなく「に」ではないだろうか。

『弟』が、国会議員を辞職し25年ぶりに書き下ろした長編だったから、筆が衰えていたというわけではない。慎太郎はデビュー当時から、その悪文ぶりを、ほうぼうから指摘されているのだ。
 
 たとえば初期の短編「奪われぬもの」にはこんな表現がある。

〈少なくとも試合の中の行為に彼はいかなる些細な意味合いも持たしたことがあっただろうか〉

〈そして行為が結果と言う形でいかなる意味を持つかは、果して彼自身にも本当に理解できるところではない〉

 一読しただけでは、意味が“すっと入ってこない”のではないだろうか。当時東京新聞の匿名コラム「大波小波」は、この石原の文章について「変な言葉遣い」とし「一体に近ごろの若い作家の文章を見ると、係り結びが崩れてきているようだ」と批判している。

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