これを受けて、夫の三浦朱門氏も悪びれることなく、曽野が全く育児をしていなかったことを証言する。
「私たちは二人とも忙しかったですからね。夫婦二人では、とてもこまめには面倒がみられなかった。息子は彼女の母親が育てたようなものですね」
つまり、自分自身は息子の世話を実母に丸投げしておいて、働く女性たちには「出産したらお辞めなさい」と説教していたというわけだ。なんという巨大なブーメラン。もしかしたら、安倍政権は自分には甘く他人にはとことん厳しくすることを新しい時代の「誠実」と位置づけたいのか。あるいは、これからの厳しい国際社会を生き抜くために「自分のことを棚上げする技術」を教えようとしているのだろうか。
そんな曽野綾子だが、うってかわって優しい一面を見せることもある。『人間の基本』という著書で、曽野はこんなエピソードを明かす。
「以前、大手銀行に勤める知人が『本社の地下にプールを作って、女子行員とのふれあいの場を作るのが僕のプロジェクトなんです』と言うのを聞いて思わず笑ってしまったことがあります」(『人間の基本』新潮新書)
当然、この後は苦笑しながら「女子行員はあなたの接待要員ではないのよ」とたしなめ、最近の銀行員の品位のなさを嘆くのだろうと予想していたら、さにあらず。曽野はこの水着の女性行員をはべらしたいと夢想する銀行員の台詞をこう評するのだ。
「彼が頭脳も家柄も抜群なのに絶対に偉ぶらない、都会的なセンスを持った方だからこそ通じる、上等のジョーク」
完全なセクハラ擁護というか共犯でしょ、これ。しかも、こんなベタな言葉を都会的なセンスで上等なジョークと評するとは、この人が小説家として通用しなくなった理由がわかる気がするが、とにかく、曽野は男性、とくに家柄のよいエリート男性にはやたら甘く、優しいのである。
一方で、厳しいのが女性や弱者に対して、だ。どんな過酷な状況におかれている人に対しても、平気で上から目線の説教をする。04年に起こった新潟県中越地震では、地震にあって呆然としている人たちに対して、こう叱るのだ。
「私なら余震の間にどこかからお鍋を手に入れて来て、ガス洩(も)れの恐れのない遠くで、すぐに自分でご飯を炊く」
「お握りやパンの配給があるまで、どうして手を拱(こまね)いているのだろうか。年寄りは年寄りなりに、自分が今まで生きてきた体験上の知恵を働かせて、なぜ自分たちで生きることに努力しないのだろうか。それでいて国家に不平を言う人もいる」(『産経新聞』04年10月29日)