実はこの産経の報道の約10年前、1982年にレフチェンコは米下院情報特別委員会で証言し、KGBの協力者として30人のコードネームを暴露。さらに30人中、8名の実名を明らかにしたのだが、その8名のうち唯一の新聞記者が産経新聞編集局長(当時サンケイ新聞)という要職にあった山根卓二だった。
また、レフチェンコは山根局長が「カント」というコードネームをもち、かなり重要な協力者だったことも暴露。読売新聞、共同通信にもエージェントがいた中で、山根のみ実名を出した理由についてもこう語っている。
「山根氏は特別のケースです。カレは日本の大新聞の編集局長です。私は日本人に、不幸にもそういうことだって起きうることを警告したかったのです」(「レフチェンコは証言する」文藝春秋刊 1984年))
レフチェンコ証言は国会でも取り上げられる事態となり、当時の警察庁警備局長が「その信憑性は全体として高い」と答弁。また元警察官僚であり官房長官だった後藤田正晴も「レフチェンコ証言は信憑性が高い」と語っていた。しかし、山根局長については当時、名前が出ただけだったため、産経新聞はこうした事実を一切認めずに、山根局長をこっそりと退職させて幕を引いた。
ところが、それから10年。産経新聞は自社の疑惑には頬被りしたまま、社会党叩きのためにレフチェンコ証言をもちだしてきたのだ。社会党と旧ソ連との関係を追及するレフチェンコ証言は2日連続で産経の紙面を飾るのだが、しかし、そこには自社の編集幹部がKGBスパイだったという記述はなかった。その不祥事についての「おわび」はおろか、その事実の記載さえ一切なかった。
まさに「特定の意図」をもって事実を切りばりしたとしか思えない報道だが、産経はこの後、とんでもない恥をかくことになる。
産経が10年ぶりに引っ張りだしたことで、レフチェンコは再びメディアの注目を集めるようになり、「文藝春秋」(93年6月号)が「私が操った社会党と新聞」というレフチェンコのロングインタビューを掲載。ここでレフチェンコは社会党との関係だけでなく、産経新聞・山根編集局長への具体的な工作を暴露したのだ。
「山根氏はソ連のスパイでした」
「山根氏は私が自分で操作していたエージェントで、『産経』の所有者、鹿内信隆氏のアドバイザーとして、中国に特派員を送らないようにしたのです。そして、毎日、反中国的な記事を載せていたのです」
「『産経』が強固な反中国的な新聞であることがとても気にいっていて。だからこそその目的で『産経』にKGBは侵入したのです」
「たとえば、中国に石油探査の話がもち上がった時には、山根氏は新聞社の小物たちに命じて、石油の存在を疑問視する記事を書かせたりした」
これぞまさに、産経用語でいうところの「売国」というヤツではないか。
しかも、その事実はつい2ヶ月前、自らがその証言に丸乗りしたのと同じ人物の口から発せられたのだ。