また、たけしの次にりえママがターゲットに選んだのが、歌舞伎俳優の中村勘三郎(当時は勘九郞)だ。りえは94年に勘三郎と京都のホテルで不倫密会の上、自殺未遂騒動を起こし、またしても世間を騒がせたが、しかしこの勘九郞との交際も、りえママ公認のものだった。
貴乃花にビートたけし、そして勘三郎──りえママが業界の大物に目をつけ、話題づくりのためにりえと交際させた。当時のマスコミは、こんなふうにりえのスキャンダルを報じていた。すべては、りえママの戦略なのだ、と。
だが、前述のセックスを勧めるエッセイを読めばわかるように、話題づくりというには、りえママの行動はあまりにも過激すぎる。むしろ、りえママは話題づくりよりも、娘に自分の“願望”を託していたようにも思えるのだ。
近年、“毒親”が話題を呼び、なかでも「母の重たさ」と感じている娘の存在がクローズアップされている。そうした“母が重い”娘たちが訴えるのは、母の娘に対する過干渉だ。自分の理想を娘に押しつけ、あらゆることに口を挟んでくる母。そして、自分の思い通りにならないと、母は娘を強く叱りつける。実際、りえの場合は自殺未遂騒動のころにハーフのモデルと“無断交際”をしており、それを知った光子さんは、りえを「烈火のごとく叱り飛ばし、平手打ち」したという(小学館「女性セブン」95年10月5日号)。
娘が選んだ相手との恋愛は決して許さず、たとえ不倫であっても自分の選んだ男性との交際にこだわった母。りえママがりえとたけしとのセックスに異常に固執し、勘三郎との関係を後押ししたのは、芸能界でセンセーショナルな存在として話題を振りまきたい、大物とのつながりをもちたいなどの計算ももちろんあっただろうが、それ以上にりえママ自身が彼らのことを“好き”だったのではないか。そう、一連のりえのスキャンダルは、自分の欲望を娘に託した“毒親”的行動によって引き起こされていたのではないだろうか。
ご存じのように、りえは長く摂食障害に苦しんできたが、それも母子関係が原因だったと見られている。マスコミは光子さんのステージママぶりを「母子一体」「一卵性親子」と表現してきたが、その呪縛から解き放たれたからこそ、さまざまなスキャンダルや苦難を乗り越え、りえは女優として再起できたのだろう。
「私は、役者として、母として、女として、惜しみなく生きようと思います」──母子2人の歩みをこうして振り返ると、母の最期にコメントしたりえのこの言葉は、力強く響いてくる。
(水井多賀子)
最終更新:2016.08.05 06:06