さらに、判決文は、竹田氏の「これは差別ではない」という主張の問題点、欺瞞性についても言及していた。
竹田氏は「国家・政府、政策について批判しているだけ」と繰り返し主張。これに対して、山崎氏は陳述書などで、その手法を〈ある国民や民族全体に対する「差別的見解」を、正当な「批判的見解」でいわばサンドイッチにすることで、差別的見解が「差別ではない」かのように見せかけ、あるいはそう強弁することで責任の回避を図っています。〉と分析していた
判決文は同様に、竹田氏の韓国や中国批判が「他民族を劣位に置く意識を与える」ことを認めだけでなく、「これは差別ではない」という竹田氏の弁明じたいの問題点まで踏み込んでいる。
竹田氏が、韓国の民度が低いことを韓国の歴史に起因するものである旨を主張する一方、〈「人」については、「誰でも白紙で生まれてきます。」などとして、国家や民族の歴史から切り離された個人の存在を仮定〉し、さらに〈人種差別の定義についても、「その生まれ持った条件」(肌の色や出生地)に基づく差別として、歴史や文化を捨象した限定的な解釈を主張している〉ことについて、以下のように指摘したのだ。
〈むしろ、歴史を理由として文化や「民度」を劣等視することを正当化するものともいい得るものであって、まさに「差別主義的」との評価を受ける余地があるものというほかない〉
つまり、裁判所は竹田氏の「これは差別ではない」という主張じたいが、差別を正当化し、差別主義的であると断じたのである。
この指摘は、竹田氏に限らず、多くのネトウヨ論客らが口にする「これは差別ではない」というエクスキューズの欺瞞性を司法の場であらためて明らかにしたといえる。