じつは昨年のネタでも村本は、基地問題で沖縄の民意を無視する政府や朝鮮学校の授業料無償化が不当に認められない現状のほか、性的マイノリティをめぐる差別や安田純平氏に自己責任を叫ぶ一方で目が向けられないシリア情勢、BTSの原爆Tシャツ問題を槍玉に挙げながら被爆者を蔑ろにする政府や極右たちといった告発をおこないながら、ネタ全体を通して強者の権益保護と弱者排除をどんどん強めているいまの日本社会と新自由主義的価値観への批評を展開した(詳しくは既報参照→https://lite-ra.com/2018/12/post-4420.html)。それは漫才の構成として唸らせられるものだったが、今年のネタはさらに「泣きながら笑う」という漫才がこの世にはあるということ、その存在を、声を、なきものにされた人びとがいること、そして、そうやってなきものにしているのは自分ではないのかと観る者が内省せざるを得ない漫才を、村本はやってみせたのだ。
村本は番組の放送後、「note」に「年に一度の漫才を終えて」という文章を投稿し、そのなかでこう綴っている。
〈今回、相模原の障害者施設で殺された人たちの話もしたけどさすがに人が殺されてるのはテレビでは無理だった。でもさ、劇場でも客席みたら若い女男ばかりだよ、なんでもっと車椅子がいないんだ、笑いたいけどだれかが遠慮してきてないんだ。いつだってみんなの中にいない奴がいる。彼らは透明人間だ。声をあげても、誰かの顔がひきつる。漫才をやってて原発とか車椅子とかそんなワードを出したらお客さんの空気がガチッと固まる音がする。慣れてないんだ。日常で触れない言葉だから。それではずっとそれで苦しんでる人たちの声は誰かに届かない。〉
〈誰かの評価を欲しくてあの場に行くんではない。おれはそのバラエティのお茶の間にその透明人間達を連れて行きたかった。〉
村本はネタの最後、観客に向かってこのように挑発した。
「笑いは緊張からの解放ですから、いまお前らを逃がしてやったのは俺だぞ。じゃあな」
こう言い放つと、スタンドマイクを倒し、舞台をあとにした村本。舞台裏のインタビューでは「やったぜ! 最高でした! あの、お客さんがみるみるうちに、どの顔で聞いたらいいのかわからない顔が最高でした!」と答えていたが、たしかに「透明人間」にされている人びとの存在を、村本はゴールデンタイムの全国ネット番組に連れ出したはずだ。
案の定、ネット上では「あんなものは漫才じゃない」という声が今年もあがっているが、そんな批評は通用しないだろう。村本はもう「泣きながら笑う」というスタイルをつくり上げ、さまざまな場所で人びとを沸かせているのだから。
惜しむらくは、それをテレビで観られるのが「年に一度」になってしまっていること。テレビに出ておらずとも「嫌いな芸人」5位にランクインするほどの存在感をもつ芸人を、地上波は「透明人間」にしようというのだろうか。
(編集部)
最終更新:2019.12.09 11:12