その後、公務復帰の目処は立たず、同年3月になると、雅子皇后は軽井沢にある小和田家の別荘で転地療養生活に入った。宮内庁や皇室の施設を使わないという異例の決断だけでも、雅子皇后の宮内庁への不信感と症状の重さがうかがい知れたが、実際、週刊誌はこの時期に雅子皇后をめぐって、重大な事件が起きていたとの報道をしている。
「『週刊女性』が『軽井沢に転地療養直前にある深刻な事態があった』と報じたんですが、まさに転地療養直前、雅子さまが東宮御所で衝動的に手首を切ったという噂が流れていたんです。『週女』の記事は明らかにそのことを指していた」(前出・皇室ジャーナリスト)
さらに、「週刊新潮」は雅子皇后がこの時期離婚の意志を口にしていたという話を報じた。
「ちょうど雅子妃が体調を崩され、精神が不安定な時期のことで、あることをめぐって雅子妃がお怒りになり、東宮職の幹部に直接電話で “私、皇太子妃を辞めます”と言って、一方的に電話を切ってしまうという出来事があった。これを伝え聞いた宮内庁は、“離婚”の問題を内々に検討するようになったのです」(「週刊新潮」2006年1月5・12日号より)
そして、こうした危機的な事態を受けて、2004年5月、徳仁天皇の「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」という、いわゆる“人格否定発言”が飛び出すのである。
そして、同年7月には「適応障害」という心の病気を患っていたことが公表された。
だが、それでも、宮内庁の雅子皇后への排斥姿勢は変わらなかった。メディアにはオフレコで「人格否定発言は皇太子さまに雅子さまが言わせた」などとリークし、「適応障害」という病名についても、雅子皇后は適切な治療のために公表を望んでいたが宮内庁は最後まで抵抗していたという。
メディアも同様だった。精神的な病であることが公表されたにも関わらず、相変わらず「わがまま」「ストライキ」「怠け病」などという攻撃を繰り広げた。
2005年12月の雅子皇后の誕生日に東宮職医師団が、「これまでに直面されてきたストレスは、医師団の想像以上に強いものであった」「医師団としては、続けてご公務をしていただけるまでにはまだ回復されていらっしゃらないと判断しております」と「見解」を発表すると、雅子妃バッシングはさらに過熱していく。
こうしたメディアのバッシングを主導していたのが、右派勢力だった。日本会議系の集会では、男系主義の学者が雅子妃批判を語り大喝采を浴びたり、男系派の論客で安倍首相のブレーンとしても知られる八木秀次氏に至っては「AERA」で離婚説の発信源は「皇太子ご夫妻側ではないのか」「同情を誘い、これからの皇室改革を自分たちの都合よく進めようとしている」などとトンデモ陰謀説まで開陳する始末だった。
当時、皇室典範を改正し、女性天皇を認めようという動きが出てきていたのだが、男系男子に固執する勢力が雅子皇后をターゲットにバッシングを展開し、それにメディアが引きずられていくという構図が出来上がっていたのである。
その後、秋篠宮家の悠仁親王の誕生により皇室典範改正の話は先延ばしされたが、それでも愛子内親王の教育などを巡って、バッシングは続いた。
それこそ、バッシングが消えたのは、即位が決まってからのことだ。
「皇族への批判は一時よりも自由になりましたが、天皇皇后への批判は今でもメディアは躊躇しますからね。しかも、上皇さまと美智子さまに嫌われている安倍首相が徳仁天皇陛下や雅子皇后に秋波を送り始めたことで、右派メディアも一斉にバッシングをやめてしまったというのもあるでしょう」(前出・皇室ジャーナリスト)