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即位パレードで「雅子さまの足跡」を振り返るマスコミが触れなかった男子を産まない皇后への過酷な圧力と深刻な事件!

 そして、2001年、愛子内親王が誕生。これでようやく、雅子皇后へのプレッシャーは軽減されるだろうと思われた。しかし、実際はまったく逆だった。出産したのが女児だったことから、雅子皇后への風当たりはむしろ強まった。安倍首相を取り巻く右派が今も固執している「男子にあらずんば天皇にあらず」という男系男性天皇への固執が雅子皇后にさらなるプレッシャーを与えたのである。

 愛子内親王出産から1年後の2002年12月、雅子皇后はようやく徳仁天皇とともにニュージーランドを公式訪問することになった。約8年ぶりの外遊、出発前の会見で雅子皇后は、「今回、昨年子どもの愛子が誕生いたしまして、今年、関係者の尽力によりニュージーランドとオーストラリアという2カ国を訪問させていただけることになりましたことを本当にありがたいことだと思っております」とあいさつした上で、外遊への思いをこう打ち明けた。

「結婚以前の生活では私の育ってくる過程、そしてまた結婚前の生活でも、外国に参りますことが頻繁になっておりまして、そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから、6年間の間、外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます」

 これを聞くと、雅子皇后が皇室外交の希望を持ちながらそれをさせてもらえないことに強い無念の思いを抱いていたことがよくわかるが、しかし、雅子皇后への同情的な意見はほとんど起きなかった。逆に、政界や保守勢力、右派メディアから「何をわがままを言っているのか」「外国に行く暇があるなら、男子を産め」というバッシングの声が一斉に上がったのだ。

 いや、政界や右派メディアだけではない。鎌倉氏の後を引き継いだ湯浅利夫宮内庁長官が雅子皇后の定例会見で、この雅子皇后の発言に対して「あれだけ外国訪問をなさりたかったのかと正直驚いています」「外国訪問を積極的に進めることは、結果的に難しかった。いわゆるお世継ぎの問題がけっして小さな問題ではなく心配してきた」と、前例のない反論を口にしたのだ。

 さらに、翌年になると、この動きはもっと露骨になる。徳仁天皇と雅子皇后の結婚10周年に当たる2003年6月9日、徳仁天皇は第二子についての質問で「今しばらくは愛子の子育てを大切にしていきたいと思っています。二人目の子供について質問がありましたが、今後、一人目に至るまでにあったような内外からのプレッシャーを是非とも避けたく、この点につき、よろしくお願いしたいと思います」と回答したが、翌10日、湯浅長官はまったく逆に、プレッシャーをこう口にしたのだ。

「やはりもう一人は欲しい」「国民もそう考えているのではないか」

「愛子さまが生まれてから、雅子さまには愛子さまの教育に集中したい意向を持っていましたが、宮内庁からは不妊治療についても継続するよう圧力がかかっていたようです。また、メディアの雅子さまバッシングもさらにエスカレートしたのですが、そのネタ元の多くは、宮内庁、宮中守旧派でした。雅子さまはそういう状況に非常にショックを受け、心を病んでいったのです」(前出・皇室ジャーナリスト)

 実際、2003年12月に、雅子皇后は体調を崩し、宮内庁病院に入院する事態に。4日で退院したものの、翌年春までの公務休養が発表された。病名は「帯状疱疹」と発表されたが、「強迫神経症」「鬱病」という見方が濃厚で、実際、週刊誌ではそういった報道がなされた。

 ところが、宮内庁はその精神が不安定な雅子皇后に追い討ちをかける。湯浅長官が雅子皇后の退院直後の記者会見で、秋篠宮の第三子の可能性について聞かれ、「秋篠宮さまお考えもあると思うが、皇室の繁栄を考えた場合、3人目を強く希望したい」と言ったのだ。

「皇太子殿下ではなく、弟に『強く希望したい』などというのは、宮内庁長官としてはありえない発言。雅子さまに最後通牒を突きつけるという意味合いだったのでしょう。これで雅子さまがご自分を完全否定された思いになり、さらに病状を悪化されたのは間違いありません」(前出・皇室ジャーナリスト)

 実際、雅子皇后が休養に入ってから2カ月がたった2月23日の誕生日会見で、徳仁天皇は雅子皇后の体調不良の理由について、こう語っていた。

「世継ぎ問題のプレッシャーがかかってきたこともまた大きかったと思います」

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