いずれにせよ、くだらないマウンティングと主題のスリカエのために、わざわざ分かりにくく文章を装飾するという滑稽さ。さすがは三浦センセイとしか言いようがないが、もっと酷いのはここからだ。三浦氏は続けてこんな「芸術観賞論」を展開する。
〈芸術を鑑賞するという行為は、アーティストや場をしきるキュレーターと、一般の鑑賞者の間に大きな壁を創り出します。このヒエラルキー関係は、「時間」や「コスト」をかけて会場にたどり着き、並び、犠牲を払ってたどり着いた人びとが、好まない芸術や見解に対して不快さを感じうる主要な原因です。〉
〈苦労して出掛け、並び、なのに質の低いと思われるものに出会った、その表現はさっぱり共感できないものであるか、あるいは作者が自らの無謬性と正義を主張しているものにしか見えない、となれば、脅迫行為は論外にしても、人びとの怒りが集まるのは至極当然の流れだったでしょう。〉
バカバカしくて口を開く気もしないが、あえて真面目に反論しておくと、そもそも「表現の不自由展」はトリエンナーレ開幕初日からバッシングが相次ぎわずか3日で中止に追い込まれた(もしかして三浦センセイ、ご存知ない?)。脅迫や電凸攻撃を行った者のうち、実際に同展を観賞した人なんてごく少数(あるいは皆無)だろう。加えて、不自由展はあいちトリエンナーレ全体から見ればほんの一部だ。にもかかわらず、文化庁はあいちトリエンナーレ全体への補助金を全額取り消した。
百歩譲って、不自由展だけが目当てで「コストをかけて」「苦労して出掛け」「並び」「犠牲を払ってたどり着いた」人がいたとして、だ。少なくともそういう鑑賞者は、不自由展のコンセプトやいくつかの展示作品の背景について予備知識を持っていたはずである。つまるところ、「質の低さ」や「作者の無謬性と正義云々」(三浦センセイの主観)は鑑賞者次第としても、じゃあ、そういう人たちが本当に「わざわざ頑張って観に行ったのに!」と怒って電凸したとでもいうのだろうか?
んなわけないでしょ。政治家とネット右翼が「反日」と煽り、展示を潰すために多数の電凸攻撃が展開された。これが事実だ。
しかも、三浦センセイは「コストに見合わず不快に感じた鑑賞者」との妄想を飛躍させ、いきなり「人々の怒り」なる誤った一般化をし、殺到した批判や攻撃を「至極当然の流れ」と正当化している。書いていて自分の非論理性に気がつかないのか。それとも、わざとミスリードしているのだろうか。続きを読めばわかるが、おそらく後者だろう。