1944年10月には「嗚呼神風特別攻撃隊」(作詞・野村俊夫)を発表している。〈無念の歯噛み堪えつつ 待ちに待ちたる決戦ぞ 今こそ敵を屠らんと 奮い起ちたる若桜〉〈大義の血潮雲染めて 必死必中体当り 敵艦などて逃すべき 見よや不滅の大戦果〉というような歌詞だ。
同月のレイテ沖海戦では、国民の士気を鼓舞するために読売新聞社の委嘱で「比島決戦の歌」(作詞・西條八十)という曲をつくった。曲は米軍への憎悪と敵愾心をひたすら煽りたてるものだ。2番を引用しよう。
〈陸には猛虎の山下将軍 海に鉄血大川内 みよ頼もしの必殺陣 いざ来いニミッツ マッカーサー 出て来りゃ地獄へ逆落とし〉
凄まじい歌詞である。「山下将軍」は陸軍・第14方面軍司令官の山下奉文大将で、「大川内」は海軍・南西方面艦隊司令長官の大川内傳七中将、「ニミッツ」とは米・太平洋艦隊のチェスター・ニミッツ司令長官のことで、「マッカーサー」は説明するまでもない。〈いざ来いニミッツ マッカーサー 出て来りゃ地獄へ逆落とし〉のくだりは、1番から4番まで繰り返し出てくる。
古関の自伝によれば、西条による詞が完成すると読売新聞社に集められ、新聞社幹部と軍部将校との会議が始まった。そこで将校は「この際ぜひとも敵のマッカーサーとニミッツの名前を中に入れてくれ。そして敵将の名前を国民に印象づけることが一番だ」と強硬に主張。作詞の西条は「人名を入れるのは断る」と語気を強めて反論したというが将校が譲らなかったらしい。
古関は〈この歌は私にとってもいやな歌で、終戦後戦犯だなどとさわがれた。今さら歌詞も楽譜もさがす気になれないし、幻の戦時歌謡としてソッとしてある〉と書いている。他の資料を見ると、実際にこの「比島決戦の歌」はラジオで何度も流され、同時代の人々に記憶されていたことがわかる。
なお、こうした“国策ソング”の作成は、実に敗戦の昭和20年8月まで続けられた。1945年8月5日の毎日新聞はこんな“本土決戦用軍歌”の募集告知文を掲載している。
〈本土決戰に歌う「國民の軍歌」募集
戰意昂揚 豪快勇壮の歌曲
本土決戰を目睫に控へ國民の戰意いよいよ高潮化せんとする秋(とき)、日本音楽文化協會、日本放送協會、朝日、讀賣、毎日並びに全國の各地方新聞社共同主催、情報局後援のもとに國民が歌はんとするところを率直に表現した力強い「國民の軍歌」ともいふべき歌曲を廣く一般から募集することになつた、募集規定は次の通り〉
告知文の翌日と4日後には、広島・長崎に原爆が落とされた。応募締め切り日は皮肉にも8月15日。最後の最後まで、本気で「本土決戦」のための国民の士気を高揚しようとしていたわけだ。もはや狂気と呼ぶ他ない。