孫はこう続けている。
〈私は、これまでたった一度だって日本のために走ったことはない。自分自身と祖国コリアのために走っただけなのだ。それなのに、いま私の優勝は……。国を奪われた悲哀とみじめさが交錯していた。そして、避けられなかった自分の、絶望的な誕生の運命を確実に意識していた。
「もう二度と走るまい」
日章旗から受ける苦痛のイメージがなくならない限り、マラソンはもう捨てよう。私はそう心に誓っていた。
声を殺してのみこむ嗚咽が、胸底深く落下していった。苦渋にゆがむ私の顔を、観衆はなんと受けとめたか。おそらく感激のあまり、涙にむせんでいるととったに違いない——。〉
孫基禎の金メダルは大衆の熱狂を呼んだが、日本人の朝鮮人へ見方はまったく変わらなかったという。〈彼らが熱望していたマラソン優勝者は、日の丸を胸に抱いた日本選手であって、朝鮮人・孫基禎ではなかったのである〉と孫は振り返っている。〈私が優勝したからといって、朝鮮人に対する人間的蔑視には少しの変化も起こらなかった。優勝ムードが希薄になってくると、彼らはかえって私の一挙手一投足を監視し始めた。彼らにとって不利な発言をするかどうか、戦々兢々としていたのである〉。
そこには、この回の『いだてん』が触れなかった事件も関係してくる。日本統治下の朝鮮紙「東亜日報」が、孫の胸部分の日の丸のマークを消すように塗りつぶした写真を掲載したことで、当局から無期限刊行停止の処分を受けた、いわゆる「日章旗抹消事件」である。
ルポルタージュ『日章旗とマラソン』(鎌田忠良/潮出版社)によれば、この写真修正の事実をいち早くキャッチしたのは軍司令部だったという。東亜日報の部長や記者らが次々に署に連行され、拷問を受けた。主要容疑者とされた5名は、総督府側に言論界からの永久追放を約束することで、ようやく長期勾留から釈放されたのである。
事件の背景には、朝鮮民族主義と独立運動の芽を潰したい当局の目論見があった。実際、事件は他紙にも波及しており、たとえば朝鮮中央日報も、東亜日報関係者の逮捕・連行を受けて表面的には社告のかたちで「一週間の休刊」を決めた。その後、朝鮮中央日報は経営難から再起できず、最終的に総督府から発行権を取り消されている。「日章旗抹消事件」は、繰り返し行われてきた朝鮮半島での言論弾圧の実例のひとつなのだ。