そしてもうひとつ、いまネトウヨや和田議員らが血眼になって攻撃している「昭和天皇の肖像が焼かれた作品」についても、連中がいかに無茶苦茶なことを言っているかを指摘しておく必要があるだろう。
そもそも、「昭和天皇の肖像を焼いた」などとして批判されている嶋田美子氏の作品「焼かれるべき絵」は、〈大元帥服〉を着ていることから〈昭和天皇と推定できる〉(「表現の不自由展・その後」公式サイトより)肖像の顔部分などが焼けて判別できないようになっている。批評家のアライ=ヒロユキ氏の解説によると、同作は、大浦信行氏の作品「遠近を抱えて」をめぐる検閲事件を契機に生まれたという(大浦作品は今回の「表現の自由、その後」にも展示されている)。
大浦氏の「遠近を抱えて」(シリーズ)は昭和天皇をモチーフのひとつとするコラージュ作品だ。1986年、富山県近代美術館での「’86富山の美術」展にあたって、県議会議員らから圧力を受けて図録が非公開にされた。そして富山県は1993年、作品の売却と残った図録の焼却処分を決定。その後も、2009年の沖縄県立博物館・美術館での「アトミックサンシャインの中へin沖縄」展でも館長によって展示が不許可にされている。
つまり、作家が「表現の自由」を奪われ、その結果、権力が「天皇の肖像」を「燃やし」たという事実が背景にある。その意味において「昭和天皇の肖像を燃やす」というのは、単なる「反天皇制」という言葉に回収できない意味をもつと言える。燃やされたのは「匿名の責任」であり、その主体もまた「匿名の権力」だという解釈もできるだろう。
いずれにせよ、作品を「不快だ」と感じるのは個人の受け止め方であって、自由だ。だが、それを「万死に値する」と恫喝したり、政治家が「撤去しろ」と圧力をかけるとなると、話はまるきり違う。連中がほざいているのは「不敬罪」そのものであり、そうした戦中の体制を是認することを含意している。
過去から現在にいたるまで、政治や公権力によって芸術作品や作家たちは弾圧や検閲を受けてきたが、まして、現在の安倍政権下の日本では「政府批判」だけでなく「慰安婦問題」や「原発」「憲法9条」などについてまで、ありとあらゆるものがタブー化されつつあり、炎上攻撃の対象となっている。そのことを想起せずにはいられない。