長谷川氏の言う〈子供たちの教科書から、その差別の歴史の記述自体が無くなっている〉というのも事実ではない。というか、完全にデマである。
たとえば、山川出版社の『詳説 日本史B』では、江戸時代(幕藩体制)の身分と社会についての項目で、村や都市社会の周縁部分の多様な職業集団を紹介したうえで、〈そうした中で、下位の身分とされたのが、かわた(長吏)や非人などである〉〈幕府や大名の支配のもとで、死牛馬の処理や行刑役などを強いられ、「えた」など蔑称で呼ばれた〉〈かわた・非人は、居住地や衣服・髪型などの点で他の身分と区別され、賤視の対象とされた〉などと説明されている。
長谷川氏は、“従来、学校で教えられていた江戸の身分制度の話が、現在では違う説明になっているのを知らずに話してしまった”と主張し、そのことが〈間が悪かった〉として維新の党に謝罪している。だが、10日のブログでは、自分の差別発言という問題の本質から論点をずらし、偏見の助長について謝罪もせず、逆に「切り取られて編集された」などと被害者ヅラをして、あげく、被差別民をめぐる歴史とその教育に関するデマまでバラまいた。
「僕はそれを知りませんでした」というのは、本来、自らを恥じ、歴史や事実を学ぶべきことだが、長谷川氏にとってそれは、単なる開き直りの語彙でしかないらしい。もはや救いようがない
繰り返すが、改めて認識せねばならないのは、そもそも以前から差別発言を連発していた長谷川氏のような人物に公認を与え、今回の差別発言問題でも長谷川氏のかわりに謝罪文を用意して収拾をはかった、日本維新の会の体質の問題だ。維新議員や公認候補の問題発言は一度や二度ではなく、何度も同じ事が繰り返されている。「不注意による失言」ではないのだ。この体質が維新という政党の本質であることを、有権者はしかと胸に刻まねばならない。
(編集部)
最終更新:2019.06.13 01:34