そんな村田選手が、羽生選手に対し国民栄誉賞を授与することを検討しているという報道があった直後、東京新聞のコラムでこの件に触れ、〈五輪の価値とは競技レベル(競技人口、普及率等)ではなく、企業や政治的に広告として価値があるかどうかなのかと考えさせられる、いらないオマケのついた平昌五輪でした〉と批判。さらに、「週刊新潮」(新潮社)4月19日のインタビュー記事でも、国民栄誉賞に強く疑義を呈した。
「リオで多くの金メダリストが誕生しましたが、レスリングの伊調馨選手以外、国民栄誉賞は与えられなかった。ところが、平昌では目立ったからと、羽生結弦、小平奈緒両選手が検討されると報じられました(実際の授与決定は羽生のみ)。企業や政治的に広告としての価値があるかどうかで判断しているようだった」
念のため言っておくと、村田選手はこのとき、羽生選手に授賞するなと言ったわけでも、単なる印象論で国民栄誉賞を批判したわけでもない。「週刊新潮」のインタビューでヴィクトール・フランクルの『夜と霧』についても語っているように、むしろ逆で、村田選手は「公平性とは何か」を高いレベルで考えたうえで、国民栄誉賞を批判していた。
今回、イチローが国民栄誉賞を断った背景に、村田選手のような普遍的で深い考えがあったかどうかはわからないが、少なくとも、日本のスポーツ界における最大のヒーローが安倍政権の政治利用を拒否したことは、歓迎すべきことだろう。
実際、イチローが国民栄誉賞を断ったあと、『ひるおび!』(TBS系)で八代英輝弁護士が「ほしくないにきまってるじゃないですか」
とコメントするなど、安倍応援団的ワイドショーでも、国民栄誉賞を送ろうとした安倍政権のほうが批判されるような状況になっている。また、立川志らくが「(イチローは)国民栄誉賞以上のものをもらってますから」とコメントするなど、国民栄誉賞の価値の低さも完全にあらわになってしまった。
もともと、スポーツ界は数ある分野の中でもっとも政治利用されるケースが多い。実際、安倍政権下での国民栄誉賞受賞者7人のうち5人がスポーツ選手だし、橋本聖子参院議員、馳浩・元文科相らを筆頭に、スポーツ選手が政治家に転身する例も少なくない。これは日本のスポーツ界に脈々とある体育会的パターナリズムが一因だろう。
スポーツ選手からも尊敬を集めているイチローの今回の行動が、こうしたスポーツ界の政治利用に歯止めをかけるきっかけになればいいのだが……。
(編集部)
最終更新:2019.04.06 01:24