しかも、このあと杉田議員は、こうつづけるのだ。
〈しかし、LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。〉
ここで杉田が言っていることは、「I have black friends」と呼ばれる、差別主義者がよくもち出す論法だが、「私には黒人の友だちがいる」「私にはLGBTの友だちがいる」と豪語したところで、その属性の人に対する差別の感情がないという証明にはまったくならないし、社会に差別がないことを証明するものではけっしてない。
だいたい、〈実際そんなに差別されているものでしょうか〉と杉田は主張するが、2015年に一橋大学で同性愛者であることを暴露されて学生が自殺してしまった事件のことをどう考えるのか。これはアウティングという行為だけの問題ではなく、この社会にある同性愛者に対する差別と、同性愛者たちがその差別に晒されることに恐怖を抱かざるを得ない状況に追い込まれていることを象徴している。さらに、2000年には東京・新木場で同性愛者を狙った暴行・殺害事件が起こったように、こうしたホモフォビアが生む事件はキリスト教・イスラム教社会だけのものではなく、日本にもあるものだ。
だが、杉田議員はこうした事件は無視して、〈LGBTの当事者の方たちから聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います〉と述べ、家庭で解決できる問題だと指摘。ならば親世代がもつ偏見・差別を解消するためにも支援策を強化し、同時に政治家として法的な平等を目指すべきだが、しかし、杉田議員は〈リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず〉だと主張して、〈LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです〉という、問題の発言へと辿り着くのだ。
日本のいまの社会にはLGBT差別はない。そもそも当事者たちが「生きづらい」のは社会ではなく親の責任、自己責任だ。そして「生産性」もないLGBTに税金を使うなんてあり得ない──。これが、松本の言う杉田の寄稿文の「前段」の内容である。
一体、これをどう読めば「そんなにおかしなことは言うてなかった」という解釈になるのか、という話だろう。