『焼肉ドラゴン』は、鄭義信にとって、ある種の私小説的な作品であるといえる。鄭義信は姫路城の外堀にあるバラック小屋の集落で生まれ育っている。その場所は国有地であったが、戦後の流れのなかで貧しい人たちや行き場をなくした人々がそこに小屋を立てて集落をつくった場所。伊丹空港近くの集落もまさしくそのような場所で、二つの集落は非常に似通った境遇にあるといえる。
劇中で、土地から追い出そうとする役所の人に対して父が返す「(この土地は)醤油屋の佐藤さんから買うた」という台詞は、実際に鄭義信の父が言っていた言葉をそのままもってきているという。
舞台の『焼肉ドラゴン』は、2008年に上演されるやいなや大変な話題となり、チケットは入手困難となった。鄭義信は『焼肉ドラゴン』のような作品が上演でき、それだけにとどまらず、さらに大成功をおさめるまでにいたった要因について、当時の日本社会のなかにこれまで無視されてきた在日の問題を理解しようという風土ができあがり始めているのではないかと分析している。
「在日コリアンの問題をここまでストレートに書いた戯曲が今までなかったと思うんです。この何年か韓流ブームがあり、同時に映画界でも、僕が脚本を書いた『月はどっちに出ている』以後、『GO』や『パッチギ!』という作品が出てきて、在日に関する理解度が深くなりだした。つまり、「受け止めてもらえる土壌ができてきた、直球を投げられる」という感覚ですね。『焼肉ドラゴン』は70年代の大阪を舞台にしていますが、もしリアルタイムでこの作品を発表しても、在日の暮らしを知らない人、興味のない人が多かったと思うんです」(「せりふの時代」08年8月号/小学館)
舞台『焼肉ドラゴン』は、好評を受けて2011年と2016年にもそれぞれ再演された。映画『焼肉ドラゴン』で企画・プロデュースを務める清水啓太郎氏は11年の再演時にこの舞台を観劇(08年の初演時にはチケットが入手できなかったとのこと)。作品に感動し、東日本大震災で傷ついた日本に「家族の絆」を描いたこの作品を届けたいと映画化の企画がもち上がる。
映画用の脚本にも着手するなど具体的な動きにも入っていくが、日韓関係の悪化により企画は頓挫。在日コリアンに対するヘイトスピーチが苛烈を極めていった時期でもある。そして、2015年頃にもう一度企画があがりようやく完成にいたるという紆余曲折した製作過程をたどっている。