だからこそ、「自分たちにも表現の自由がある」などと抜かすヘイトスピーカーの理屈は、控えめに言っても“徹底批判”されねばならない。たとえば、百田尚樹は前掲「iRONNA」に寄せた手記のなかで、今年、一橋大学での講演会が学生団体・反レイシズム情報センター(ARIC)ら多数の反対によって中止となった件について、〈ARICや彼らに賛同する人たちは今後、「言論の自由」や「表現の自由」を口にする権利はないと思います〉と述べている。
しかし、反対者たちは百田の言論を決して暴力で制したわけではない。自らのヘイトスピーチに反省の色ない百田と、言論を基盤する運動で闘ったのだ。仮に「ヘイトスピーチをする自由」なるものがあったとしたら、それは「表現の自由」の努力によって敗走に追い込まねばならない。虚説や差別言辞は「両論」として並置されるべきではない。
リップシュタットは、映画の日本公開に先駆けて応じた朝日新聞のインタビュー(17年11月28日付)で、メディアによる「両論併記」に対してこう釘を刺している。
「私たちは、何でも議論の余地があると習いました。しかし、それは間違いです。世の中には紛れもない事実があります。地球は平らではありませんし、プレスリーも生きていないのです。ウソと事実を同列に扱ってはいけません。報道機関も、なんでも両論併記をすればいいということではありません」
皮肉なことに、朝日新聞もまた慰安婦報道問題以降、目に見えて「両論併記」という名の病を患っているが、何より重要なのは、「表現の自由」は「両論」を紹介することとは無関係であり、前者は後者によって担保されるものでは決してない、ということだろう。むしろ逆で、明らかな歴史修正の虚説や差別扇動の言辞に対しては、強く「間違っている」と断じなくてはならない。ましてや「歴史的事実と見るのが一般的だが、『なかった』という見解もある」とか「差別をしてはならないが、差別的なことを言う権利もある」と並べるのは論外である。
その精神は、映画にも誠実に反映されている。ただ、残念なのは『否定と肯定』という邦題だ。まるで歴史修正主義が事実と同じ地平にいるような誤った印象を与えかねない。原題の“Denial”は、現実から目を背けるというニュアンスの「否認」の意である。またフライヤーには「ナチスによる大量虐殺は――真実か、虚構か。」とのコピーが躍っている。ホロコーストですらこのような悪しき両論併記をしてしまう。ある意味、日本の歴史認識をめぐる現状がよくあらわれているともいえる。ましてや南京虐殺や従軍慰安婦など自国の加害の歴史となると、触れただけで歴史修正主義者たちから一斉攻撃を受けるのが、現在の日本だ。政治権力と一体化した歴史修正主義は、過去だけでなく現在をも捻じ曲げる。わたしたちはそれと闘わねばならない。
(小杉みすず)
最終更新:2017.12.24 10:58