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富岡八幡宮殺傷事件・富岡茂永容疑者が「日本会議」初の支部長として歴史修正主義運動に邁進していた過去

 これだけでも、茂永容疑者が日本会議の歴史修正主義運動、戦前回帰運動の最前線に立っていたことがうかがえるが、記事はさらにこう続く。

〈都平和祈念館問題については、地元住民組織「平和祈念館を考える墨東都民の会」(相沢春夫代表)と連携して、空襲遺族追悼に絞った展示を求める方針。〉

 そう、茂永容疑者率いる日本会議江東支部は、あの「東京都平和祈念館」建設阻止運動でも、大きな役割を果たしていたのだ。

 90年代になって、「自由主義史観研究会」や「新しい歴史教科書をつくる会」など、歴史教科書における日本軍の加害記述の削除を求める歴史修正主義運動が台頭したが、彼らがもう一つ標的にしていたのが、全国各地に建設されていた戦争資料館だった。

 こうした戦争資料館の多くは戦争の悲惨さを伝えることを目的としており、当然、日本の戦争被害だけでなく、アジアへの加害の実態を記録し、展示していた。ところが、歴史修正主義勢力は、この加害展示を「自虐的」として、展示の撤去や建設阻止の運動を展開したのだ。

 まず、1996年には「長崎の原爆展示をただす市民の会」が発足し長崎原爆資料館の展示を糾弾。長崎市は映像や解説文の約200カ所を削除・訂正することになった。1997年には、大阪府に「戦争資料の偏向展示を正す会」が発足、大阪国際平和センター(ピースおおさか)の展示を「偏向展示」だとして大々的な抗議運動を展開した。

 こうした流れの延長線上で標的になったのが、東京都平和祈念館建設計画だった。東京都平和祈念館は青島幸男都知事時代に、東京大空襲の犠牲者を追悼するとともに、戦争体験と平和を希求する心を継承するという、至極まっとうな目的で立ち上げられた計画だったが、自由主義史観研究会の会員だった極右都議などが中心になって、「平和祈念館をただす都民の会」を発足。やはり「加害展示」の部分や東京を「軍事都市」と表現していたことなどをあげつらい、建設計画の凍結に追いやったのだ。

 自国にとって都合の悪い歴史に蓋をするため、戦争の悲惨さを後世に伝える機会そのものを奪う──まさに歴史修正主義丸出しの暴挙というしかないが、この運動を全面的にバックアップしたのが神社本庁と日本会議だった。そして、その日本会議で江東支部の支部長を務めることになった茂永容疑者は署名活動などで大きな役割を務めていたとみられる。江東区は東京大空襲の被害の中心だった深川地区を擁しており、富岡八幡宮もまた空襲で焼失しており象徴的な存在でもあった。

 事実、当時、建設予定地だった墨田区横網町公園近くで行われた撤回を求める集会の模様を報じた産経新聞98年12月27日付の記事には、茂永氏が「神社関係者だけでも二千五百八十六人の反対の声を配達証明で届けている。都の(意見募集の)集計に不正があるのではないか」と自らの反対運動をアピールし、都の姿勢に対し陰謀論を展開するくだりが出てくる。

 茂永容疑者は当時、東京都内の若手神職(40歳以下)による団体「東京都神道青年会」の会長も務めており、この会や日本会議江東支部をベースに、反対の声を取りまとめていたのだろう。

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