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マツコ・デラックスが「いじめられる側にも悪いところがある」論を批判! いじめる側の闇、弱者バッシングの構造も喝破

 マツコは前掲「サンデー毎日」17年11月12日号のなかで「むしろいじめてるほうに、何らかの闇があるのよ」と断言する。

 これに関しては、教育の専門家も同様の意見を述べている。教育評論家の尾木直樹氏は〈どんな事情があっても“いじめるほうが一〇〇%悪い”のです。これは「いじめ」の原理・原則です〉としたうえで、このように述べている。

〈いじめられっ子側の問題を指摘して、いじめを正当化しようとするムードがあります。これは、とんでもない間違いです。虐待は一〇〇%虐待する側が悪いのです。心理的虐待である「いじめ」も虐待する側に一〇〇%の非があります。まずは、そこから出発しなければ、今日のいじめ問題は解決を図れないのです〉(『尾木ママの「脱いじめ」論』PHP研究所)

 では、なぜ、「いじめられている側にも原因がある」や「いじめから脱したければ強くなれ」といった意見が根強く残り続けているのか。

 社会学者の森田洋司氏は『いじめとは何か 教室の問題、社会の問題』(中央公論新社)のなかで、〈いじめとは相手に脆弱性を見出し、それを利用する。あるいは、脆弱性を作り出していく過程である〉と述べ、いじめられている側が自分にも原因があると思わされてしまうことこそが、いじめの構造なのだと解説している。

 つまり、いじめられる側は、いじめる側によってつくられたいじめを肯定する構造のなかで弱い立場に追い込まれ、孤立。そのうちに、いじめられている本人も「自分にも悪いところがある」と思わせられていくというわけだ。

 マツコは、「サンデー毎日」17年11月19日号のなかでこのように語っている。

「結局、一番弱い立場に見える人のほうが、実は強いのよ。群れて、自分よりも立場が弱い人を強引に作って攻撃してる人のほうが、ホントはよっぽど弱いのよ」

 強い者の側に立ち、自分よりさらに弱い者を攻撃することで、群れて自分の居場所を確保しようとする。マツコの指摘するこのいじめの構造は決して子どもたちだけの問題でなく、いま日本全体に蔓延している弱者バッシングにも通じるものだ。

 かつての過激さは失ったと自嘲することもあるマツコだが、弱者・マイノリティの側に立つ姿勢は現在にいたるまで一貫している。よく言われる毒舌や過激さではなく、この弱者の視点こそが、現在のテレビ界でマツコを唯一無二の存在たらしめているものだ。弱者叩きや反ポリコレ、マッチョな表現が過激でおもしろいとされる風潮のなかで、メジャーシーンにあっても弱者の側に立ち続けるマツコ。ポリコレのせいでおもしろいことができないなどと嘆いているマッチョ芸人たちにも見習ってもらいたいものである。

最終更新:2017.11.13 11:21

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