今回の問題は、理由のいかんにかかわらず体罰=暴力事件という意味で日野に非があるのは議論の余地がない大前提として、ジャズの音楽的見地から見ても、ジャズプレイヤーの卵である少年の舞台上の暴走は暴力で制されなければならないようなことなのか。
たとえば、元ジャズミュージシャンのギター講師・八幡謙介氏は自身のブログのなかで、〈「おのおの決まった小節ずつ平等にソロを回す」という決まりを本番で無視し、自分だけのドラムソロとして食ってしまうことは、<ジャズ的>には全然ありです〉と、少年の行動をジャズプレイヤーの見地から認めている。ただ、〈その後に<回復>できなかったのは彼の責任〉ではあるとしつつも、中学生では仕方がないことだと述べ、こうつづけている。
〈それにしても、この少年の勇気には脱帽です。
考えてみてください、日本人の中学生が世界的アーティストの監督する舞台の本番で、自らルールを破りジャズの精神に則って<逸脱>したのです!(しかもスティック取り上げられても、髪を掴まれても反抗してる!!)
この一点だけ見ても僕には彼がそこらへんのプロよりも立派な「ジャズミュージシャン」であると思えます〉
ジャズを愛するタモリは、以前、「ジャズっていうジャンルがあるようで、ジャズっていう音楽はないの。ジャズな人がいるだけなの」と語っていた。例として草なぎ剛は「ジャズな人」だと言い、ジャズな人は向上心=邪心がなく、「いまを濃厚に生きること」がジャズであると説いた。
実際、日野もステージ上で暴力を振るったあと、「いろんなハプニングが起きる、これがジャズです」と客席に挨拶して舞台を閉じたという。確かに、即興演奏の果てに予想だにしない出来事が起こり、それを楽しむのもジャズの大きな魅力だ。ならば、暴走した中学生の彼の演奏を、指導者として盛り上げオチをつける、そうした即興のプレイこそ日野には求められていたのではないか。少年の暴走したドラムソロより、暴力によってハプニングを着地させようとした日野の行為のほうこそ非ジャズ的だろう。