自らの思想に殉じて生きる父の活動は、植木家にとっては必ずしも良いことばかりもたらしたわけではなかったが、しかし、等はそれでも父に敬意の念を抱いていた。それは、芸能活動をするにあたって芸名を用いずに本名である「植木等」を用いたことにもよくあらわれている。彼は、父が確固たる思想のもとに名付けたその名を誇りに思っていたのだ。
〈三十の峠を超してから生まれた三男、私にはすんなり「等」と名づけた。絶対的平等が人間社会の根本だ、という理想を、いわば宣言したのである。私は、この名前を誇らしいと思っている。本名も芸名も、この名前一本でやっている〉(『夢を食いつづけた男』より)
徹誠がもつこういった背景がどれほどドラマで描かれるかは未知数だが、ただ、このシーンだけは確実に入ると思われる逸話がある。それは、名曲「スーダラ節」にまつわるもの。もしも徹誠のアドバイスがなかったら、「スーダラ節」はこの世に存在していなかったかもしれないのだ。
等が「スーダラ節」を歌うことになった際、「飲む、打つ、買う」に耽溺する男の自堕落な生活を明るく歌う歌詞があまりにも不真面目であることから、等は躊躇し、父に相談してみることにした。そこでこんな言葉をかけられ、歌うことを決意したという。「週刊プレイボーイ」(集英社)1990年12月18日のインタビューでこのように語っている。
「あのおやじならなんと言うか、と思って詞を見せたんですよ。「どうだい、おやじ、この歌、やろうかどうか俺は迷っているんだけど」と言ったら、「うーん、これは親鸞の生き様に通じる精神だ。地球上に人類が存在する限り永遠不滅の真理」だって。それで、どこがそうなんだって聞いたら、「わかっちゃいるけどやめられない、っていうのがそうだ」って言う。腹を決めてやってこいって」
徹誠は「スーダラ節」の歌詞から、人間の欲望も含めた「生きること」の肯定を読みとったのだ。今夜スタートのドラマでも、是非ともこの父について多く描いてもらいたい。
(新田 樹)
最終更新:2017.12.07 05:27