紗倉はこれまでインタビューなどで「自らAV業界に応募した」「親も公認」といった話をしばしばしてきているが、実は最近、ことはそんなに単純ではなかったことを告白している。今年1月に発売されたスタイルブック『MANA』(サイゾー)のなかで、彼女は「親公認」の真相についてこのように綴っていた。
〈よく「家族は認めてくれたの?」との質問を投げかけられることがあります。私の場合、母親に“認めてもらって”はいます。ひとつだけ声を大にして言いたいのは、「母に認めてもらっている」とはいえ、進んで「よし、AVで立派に稼いで来い!」なんて運びではなかった、ということです。本当は普通に就職して、普通に結婚して、普通に子供を産んでほしいなどの自分が掴んだような幸せを願ったり、もしくは優良企業に勤めて玉の輿に乗ってほしいなどのちょっとした欲を上乗せした希望を、親は子供に抱いているはずなんです。私の母も例外ではありません。それでも、最終的に「元気に楽しく生きていてくれるならいい。職業に貴賤なし」と、深い愛情でしぶしぶ了解してくれました。眠れない辛い夜もきっとあったでしょうが、“親なりの苦しい応援の形=認める”、ということになったのです。
ここをいつも省略して話してしまうから、「納得できない」と批判されるのかもしれませんね〉
そのうえで、紗倉は前述『MANA』のなかでこんなことも綴っている。
〈「AV出演=人生崩壊」というイメージを払拭できたら。偏見という厚い鉄製の壁を壊す作業を、今はアイスピックくらいの小さい工具でほじくっているような気持ちです。ちょこちょこといじるのが私の楽しみであり、仕事のやりがいでもあります。「もしかしたら、何かの拍子にツンとつついたら壊れるかもしれない」と希望を抱けるのも、ある意味で“グレーな領域の仕事”だからこその醍醐味なのかもしれません〉
同じAVと親の問題について語りながら、鈴木は親が許さなかったのを「愛情」だといい、紗倉は親がしぶしぶ許したのを「愛情」だという。そして、鈴木が偏見を仕方がないものと受け入れるのに対し、紗倉はその偏見が強固であることも知りながら、小さい工具でほじくり続けたい、と語る紗倉。
鈴木涼美と紗倉まなは、AV女優としての体験を作家として昇華させているという意味で共通性をもっているが、そのスタンスは真逆なのだ。
しかし、この違いは、作家としての姿勢にも表れているといってもいいだろう。自らもAV体験者でありながら、俯瞰的で突き放した視点でAV女優を描く鈴木と、AV女優として自分の内奥にあるものに向き合おうとする紗倉。
そして、この親バレ問題の反応が象徴的だが、両者を見比べていると、最後は保守的、エリート主義的な価値観に回収されてしまう鈴木の物言いより、何かを突破しようと抗い続ける紗倉のほうについ、肩入れしまうのである。
(新田 樹)
最終更新:2017.12.07 04:26