仲代達矢といえば、『人間の條件』や『激動の昭和史 沖縄決戦』をはじめ反戦色の強い戦争映画に出演し、とくに主演を務めた『人間の條件』は彼にとっての出世作となった作品だが、役者として仕事をするうえでの基盤をつくったのもまた戦争体験であったと過去に語ったことがある。「キネマ旬報」13年3月1日号ではこのように話していた。
「僕は子どもだったから、批判する力もなにも持っていなかった。校庭へ入れば右に天皇陛下のご真影があってそれに敬礼するというような学校生活を六年間過ごしたわけですから。天皇陛下のために死ぬことは、当然のことだと思っていました。東京の渋谷にいたものですから、昭和二十年の四月から五月にかけての東京大空襲を体験しました。爆弾が投下されて、学校のクラスの半分くらいが死んでしまい、僕は生き残った。そして八月十五日の敗戦を境にして、大人たちの態度が変わってしまった。“鬼畜米英”が一夜にして“ギブ・ミー・チョコレート”になった。もっとも多感な年頃でしたから『なんでだ!』と大人に対するニヒリズムを持ちました。それが役者になってから随分役立ったと思っています。人間の脆さ、負の部分の捉え方に。人間肯定と人間否定の間に板挟みになりながらね」
権力も、また、その権力に追随する大人も所詮は朝令暮改で意見を変えるし、信用するに足らない。だから、「お国のため」などと言われても命を差し出す必要などない。彼と同じく、戦争中と終戦後で人が変わったかのように意見を変える大人を見て人間への不信感を抱いたと語る人は多いが、仲代は『報道特集』のなかで、いまを生きる若者たちにこう語りかけた。
「僕らの世代で生き延びている奴はもう少ないですけど、みんなこういう経験しているわけで、何が戦争だと思いますね。国を守るためにって言われると、そうかなぁと思って、みんな権力者の後についていってしまうのかもしれませんけれども。戦争を体験したこともない人たちに、最期に「戦争反対」っていうのを唱えて死んでいきたいですね」
そして、番組のなかでもうひとり戦争体験を語ったのが桂歌丸だ。彼はインタビュー冒頭から強い調子でこのように語る。
「戦争なんてのは本当に愚の骨頂ですよ。やるもんじゃないですよね。いまだに戦争の爪痕っていうのは残ってるじゃないですか」
歌丸は1936年に横浜で生まれ育つが、戦争中は千葉に疎開していたため、仲代のように九死に一生を得るような場面に遭遇してはいない。しかし、横浜大空襲のときには千葉から東京湾越しに見える横浜の黒煙を眺め、その煙の下にいる祖母の安否を案じていたという記憶を語っている。