キューバの街は日本のようにギラギラとした広告もないし、道も旧式のクラシックカーばかりが走っている。そんな街の様子に若林はいたく感銘を受ける。彼はハバナ湾に面したマレコン通り沿いのカフェで行き交う人々の様子を眺めていたときに感じたことをこのように綴っている。
〈この景色は、なぜぼくをこんなにも素敵な気分にしてくれるんだろう?
いつまでも見ていられる。
ぼーっと目の前の風景を眺めていると、なるほどそうか、あることに気づいた。
広告がないのだ。
社会主義だから当たり前といっちゃ当たり前なのだが、広告の看板がない。ここで、初めて自分が広告の看板を見ることがあまり好きではないことに気づいた。東京にいると嫌というほど、広告の看板が目に入る。それを見ていると、要らないものも持っていなければいけないような気がしてくる。必要のないものも、持っていないと不幸だと言われているような気がぼくはしてしまうのだ。
ニューヨークに行った時もそうだった。
ぼくはギラギラと輝く広告の看板やモニターを見て「死ぬほど働いて死ぬほど何かを買うことが幸福」という価値観がここから始まっているのではないかと感じたのだ。
(中略)
広告の看板がなくて、修理しまくったクラシックカーが走っている、この風景はほとんどユーモアに近い意志だ。
キューバの人たちの抵抗と我慢は、じめじめしていない。
明るくて強い。〉
ただ、旅を続け、様々な現地の人々と触れ合っていくうちに、キューバもそんなに良いことばかりではないことにだんだんと気がついていく。社会主義の国であるはずのキューバにも格差は確実に存在し、その格差は努力や競争ではなく「コネ」の有無によって決まっていくことを知ったのだ。自分の周囲に高い地位の人がいれば、良い家や配給が割り当てられるが、そうでなければ貧しい生活を強いられるという現実があった。
若林は日本での苛烈な競争に疑問を感じてキューバを訪れたが、競争がなくすべての国民が平等なはずの国にも格差の問題はやはり存在していたのだ。
〈自分に尋ねた。競争に負けてボロい家に住むのと、アミーゴがいなくてボロい家に住むのだったらどっちがより納得するだろうか?と。そして、その逆も。もしかしたら「競争に負けているから」という理由の方がまだ納得できるかもしれなかった。
(中略)
ただ、格差が広がって上位5%しか勝てないような競争は上位5%の人たちしか望んでいないのではないだろうか?
月並みな言葉だけど、バランスだよな。
だが、人類の歴史でそのバランスが丁度よかった国や時代など存在するのだろうか? 感じ方も人によって違うし、勝てている人にとってはその場所と時代が丁度いいのだろう。
個人的には「めんどくさいから、中の上でいいんだよ」である。
度を超した贅沢はしなくてもいい、度を超した努力もしたくない。だけど、エアコンがない家に住むのは辛い。こうやって書くとただのわがままだが、それを叶えたいならば今の日本では死ぬほど努力しないといけないのかもしれない。
「あぁ、めんどくさい」〉