可動性を追求した密着型ブルマーは、当時のアスリートの運動着としてはトレンドのひとつだったが、それに対する抵抗感は当のアスリートですら乗り越えられるものではなかった。そもそも、スポーツ科学の最前線を行くアスリートの運動着を一般の生徒が使う学校指定の体操服にいきなり採用するというのも、教育現場の他の事例と照らし合わせて考えてみるとおかしな話だ。
また、密着型ブルマーが教育現場に浸透していくスピードを調べていくと、それは「憧れ」だけでは説明できないほど不自然で早い。1965年までは12%ほどだったものが、その後5年間で50%にまで到達し、70年代前半の間に76%にまで広がっているのだ。急激な上昇を示すこの数字から、密着型ブルマーの普及にあたって、なんらかの組織的な働きかけがあったと著者は読み解く。
そこで山本氏が見出したのが、中学体育連盟(中体連)と、制服メーカーの尾崎商事(カンコー学生服のブランドでおなじみ、現在の菅公学生服株式会社)との関係だった。
東京オリンピック後、中体連は多くのスポーツ全国大会を主催することになり資金難に苦しむようになっていた。その打開策として浮上したのが、制服メーカーの商品に推薦を与え、その見返りとして資金援助をもらうことだった。そのために行われた複雑な作業を本書ではこのように説明している。
〈通常、体育関係団体がいくばくかの収入を得ようとするとき、まず考えるのは、団体による「推薦」とか「認定」というお墨付きを与え、業者が対価を支払うという方法である。中体連も推薦を出している。しかし、それでは必要な資金にまったく足りない。(中略)
そこで、中体連は形式上まったく別組織の任意団体として全国中学校体育振興会(以下、中体振と略記)を設立し、そのシンボルマークの使用権を尾崎商事とその関連会社に独占的に与えることと引き換えに必要な資金の提供を受けることを考えた。しかも、他の物品、たとえばボールやシューズなどに出していた「推薦」をすべてやめてしまうというのだ。相当思い切った策である〉
尾崎商事が中体振の推薦指定を受けたのは1966年のこと(菅公学生服株式会社ホームページの沿革にも記載がある)。これは前述した通り、密着型ブルマーの普及が始まった時期と符号する。
メーカー側は中体振からの推薦指定をセールスポイントのひとつとして、新製品となる密着型ブルマーを各学校へ営業活動していく。前述した通り、当時の学校でアスリートの最新トレンドである密着型ブルマーを採用している学校は少なく、それら生徒たちの体操着を密着型ブルマーに買い替えさせれば大きなマーケットを手に入れることができるからだ。普通の体育の授業にアスリート用の最新モデルの体操服が必要なのかという議論は置き去りにしながらこの動きは加速していく。