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鈴木清順の弟が明かす、清順美学の根底に流れる戦争の影響「兄は戦争から帰ってきて人が変わった」

 1923年に東京で生まれた清順は、勉強もできてスポーツも万能、加えて口数も多いガキ大将気質の少年であったという。逆に弟の健二は病弱で人見知りで無口。対称的な兄弟であった。しかし、それは兄が学徒出陣で兵隊にやられると一変する。

「母が「一分でいいから黙ってて」と頼むほど兄はお喋りで、学校では勉強のできるガキ大将。スポーツ万能で、陸上と水泳では「東京市学童十傑」に入るほどでした。それに較べて私は病弱で人見知りで無口、運動はからっきしダメ。運動会が大嫌いで、雨乞いをしていました。
(中略)
 ところが、戦争を契機に対照的に性格が入れ替わり、物静かな兄と活動的な弟に激変するのです。
 昭和十八年、兄は旧制弘前高校にいたのですが、学徒出陣で徴兵され、フィリピンに向かいます。門司を出た船団は十三隻あったそうですが、無事現地に辿り着いたのはわずか二隻。マニラから日本に帰る輸送船ではグラマン機の襲撃を受けてたくさんの仲間を失い、兄自身も海を漂流したそうです。喋る相手もおらず、自己内対話を繰り返さざるを得ない戦場が、内省的な兄に変化させたのかもしれません」(「文藝春秋」09年8月号)

 加えて、その戦争体験は、彼の映画づくりにも影響を与えているのだろうと健二は分析する。

「兄の作品を観ると、戦争体験の影響が分かりすぎるくらい分かるときがありますよ。たとえばあの明るい色彩感覚。実家が工場で生活環境に色が乏しかったことの反作用もあるかもしれませんが、やはり死生をさまよう中での「色彩への渇望」に他ならないだろうと思います。歌舞伎の型のような静止画が出てくるのも、人間の感情が一瞬凝縮してしまう戦争へのアンチテーゼに見えます。本人に聞いたことがないから当っているかどうかは分かりませんけどね」(前掲「文藝春秋」)

 事実、それは監督本人も認めていた。鈴木清順作品といえば、物語の余韻も何もなく唐突に場面が切り替わったり、脈絡なく話が飛んだりすることが多く、それがときに彼の映画は難解であると言われる大きな要因となるが(『殺しの烙印』を見た日活の社長があまりにアバンギャルドな映画の展開に激怒し会社を解雇された逸話はあまりにも有名)、それは清順にとっては突飛なことでもなんでもなく、あくまで自然なことであると本人がインタビューで語っている。

「わからない映画を作っているつもりはなかったね。ボクは映画の中で感情をぶった切ってきただけ。感情を長い間引きずることなどないと思っていたからね」(「週刊読売」1988年8月21日号/読売新聞社)

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