「不愉快に基準はない。(その線引きを曖昧なまま罰するのであれば)すべての不愉快な言論を罰することになる。これは我が国の信念です。たとえ不愉快な言論でも、すべての言論は健全な国家の活力です」
この裁判の後、ラリー・フリントは「私は最低の人間です。でも、私のようなクズでも憲法修正第一条(信教・表現の自由に関する項目)が守ってくれるということは、それは皆を守ってくれる法だということです」と語る。
「不愉快」という線引きがどこまでも厳しくなっていっている昨今。このバッシング先が「お下品」「品性下劣」ぐらいのところでおさまっているうちはまだいいが、それがどんどんエスカレートしていけばどうなるか、推して知るべしである。
放送倫理を逸脱したやりたい放題の番組づくりがいいとは思わないし、出演者や視聴者の人権を侵害する放送内容には今後も徹底的にメスが入るべきだ。ただ、制作サイドの萎縮がどこまでも強くなってしまっている現状に関しては、少し立ち止まって考えてみるべき必要性があるのではないだろうか。
(新田 樹)
最終更新:2017.11.12 02:03