彼が時事問題や社会問題をストレートに扱った「プロテストソング」から、こうした作風に激変したきっかけは、当時の恋人だったスージー・ロトロに薦められた象徴主義の詩人アルチュール・ランボーとの出会いだったという。彼は『ボブ・ディラン自伝』(菅野ヘッケル・訳/ソフトバンククリエイティブ)にこう綴っている。
〈スージーに教えられてフランスの象徴派の詩人、アルチュール・ランボーの詩を読むようになった。これも大きなことだった。そして「わたしはべつのだれかである」という題の彼の書簡を知った。このことばを見たとき、鐘が一気に鳴りはじめた。ぴったりのことばだった。どうしてもっと早くにだれかがそう言ってくれなかったのかと思った。〉
「わたしはべつのだれかである」──この言葉に触発されて、彼は多角的で重層的な言葉を駆使するようになった。1965年のアルバム『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』リリース時にはこういった発言を残している。
「これまでは、いわば「一次元的」な歌をうたってきた。今度の歌は「三次元的」なものにしようと思った。象徴的な表現も多く使って、多層的な歌を書いた」(『ボブ・ディラン 自由に生きる言葉』クリス・ウィリアムズ・編/夏目大・訳/イースト・プレス)
しかも、ディランに特徴的なのは、自分の音楽に対するこうした解説や分析からも徹底して距離を置こうとしてきたことだ。2006年のインタビューで彼はこう語っている。
「ポピュラー・ミュージックが生きものであるということをきちんと理解している批評家がいない。俺に関する共通認識はソングライターだということだけだろう? それからウディ・ガズリーの影響を受け、プロテストソングをまず歌い、それからロックンロールを歌い、その後一時期宗教音楽を歌っていたということだろ? でもそれは固定観念でしかない。メディアによって作り上げられた虚像だ。でも俺が公人である以上、それを避けることはできないだろうけどね」(『完全保存版 ボブ・ディラン全年代インタヴュー集』インフォレストより)
いや、この発言など、まだマシなほうかしれない。ディランは、そもそもロックミュージシャンのなかでも屈指のインタビュアー泣かせとして知られているが、彼のインタビューを読むと、とにかく記者の質問にまともに答えているものがほとんどないのだ。