だが、最近の日本で死刑支持が広がっている背景には、もっと大きな要因がある。それこそが「被害者遺族の感情を考えれば死刑は当然」という声の存在だ。この声は今の日本社会では絶対的な正義とされ、死刑廃止論を唱えようものなら、今回、瀬戸内寂聴に向けられたのと同じように必ず「被害者の気持ちをふみにじるものだ」「自分が被害者の親だったら同じことがいえるのか」という批判が浴びせられる。
しかし、この主張こそ、おかしいと言わざるをえない。もちろん、愛する人を奪われた被害者遺族の怒りと悲しみは当然だし、被害者が厳罰を求める気持ちは理解できる。また、日本では長らく被害者遺族の知る権利や補償がないがしろにされてきた。しかし、そうした犯罪被害者遺族の救済と、犯罪者への量刑をどう設定するかということはまったく別問題だろう。
もし、被害者遺族の感情が理由で死刑判決が下されるのであれば、被害者が天涯孤独で親族がいない場合、どうなるのか。悲しむ遺族が少なければ殺人犯の量刑は軽く、悲しむ遺族が多ければ死刑になるのか。
そもそも、近代刑法は、犯罪を抑止する目的からのみ刑罰を科せられるという「目的刑論」を原則としている。遺族感情によって量刑を決めるのは、罪への報いとして刑罰を科すという前近代的な「応報刑論」的考え方だ。いや、それどころか、「国家の仇討ち代行」という封建時代に逆戻りするものと言ってもいいかもしれない。
だが、日本ではある時期から、むしろその「仇討ち代行」が刑罰の根拠となってしまった。それは、世論やメディアだけではない。司法の世界も2000年代に入ったあたりから、この「被害者感情を考えろ」という空気に押されて、死刑に前のめりになり始めた。
その典型は、光市母子殺害事件だろう。被害者遺族の訴えがメディアで盛んにクローズアップされ、元少年の死刑を望む世論が過熱したことは記憶に新しい。犯行当時、元少年は死刑が認められる18歳をわずか1カ月超えていた。一審と二審では、1968年の永山事件(犯行当時19歳)で最高裁が示したいわゆる永山基準が考慮され、ともに更生の機会を残した無期懲役の判決が下る。ところが最高裁は「特に酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」などとし、この永山基準を事実上破棄する新たな基準を示し、差し戻し審で死刑判決が出た。
こうした司法の変化について、法務省刑事局元幹部は、このように語っている。