この判決からわかるのは、現在の裁判では驚くべきことに〈女性は強かんされそうになったら、暴行または脅迫に対して反抗するものだし反抗できる、という前提が、法のうちに確固として置かれている〉という事実だ。ここでは被害者が恐怖で声をあげることさえできなくなる追い込まれた心理状態がまったく無視されているし、痴漢被害に遭って大声で叫んでも周囲の誰も助けてもらえなかったという事例も見落とされているのだ。
さらに、膣に傷がないことが理由のひとつにあげられてしまう点などは、〈「姦」(相手が望まない性交=かん淫)自体は、かならずしも「強」的(forcible)なものとは限らない〉ということを裁判官が理解していない証拠だろう。脅され、さらなる暴力や死の恐怖を感じた被害者が加害者の言いなりになることは想像に容易く、〈加害者は、有形力を用いることなくやすやすと性交にいたる〉ものだということさえ最高裁には通じなかったのだ。
供述の変化にしても、PTSD(心的外傷後ストレス障害)によって〈しばしば被害者は、被害事実そのものの過程や被害後の関連する行動を正確に思い出すことができない、もしくは少なくともそれに困難を感じるという事態に陥〉る。これは〈苦痛や感情を再体験するのを避けようとする、生体の防御反応の一つ〉だが、こうしたことを裁判官は考慮していない。同書は〈心理学的・精神医学的な知見がやすやすと無視される事態〉と述べているが、いかに最高裁の裁判官が性暴力に対する知識をもちあわせていないか、よくわかるというものだ。このようななかで、最高裁は被害者の訴えを「経験則に照らして不合理」と断じたのである。
だいたい、裁判官の言う「経験則」とは一体何なのか。この11年判決が考え方の論拠とした09年判決(痴漢事件に関する最高裁判決)の補足意見では、那須弘平裁判官がこのように記しているという。
〈我々が社会生活の中で体得する広い意味での経験則ないし一般的なものの見方〉
これはどう考えても「我々」という言葉の主体は、裁判官自身がそうであるように「男性」であり、「経験則」とはつまり男性中心の社会でつくりあげられた“男女差”に依拠した、非科学的かつ主観的なものであるということだ。