『逃げられない性犯罪被害者─無謀な最高裁判決』(杉田聡・編著/青弓社)
不起訴処分となった高畑裕太の事件をめぐり、弁護士による「違法性の顕著な悪質な事件ではなかった」「起訴されて裁判になっていれば、無罪主張をしたと思われた事件」とするコメント文書が波紋を広げている。そして、案の定と言うべきか、ネット上では被害者を貶める意見が出てきている。
「やっぱりハニートラップだったのか」「示談ってことは最初から金目当てでしょ」「苦しんで悩んで示談は無いよ」
弁護士自身が「他の関係者の話を聞くことはできませんでした」「事実関係を解明することはできておりません」と書いているように、今回のコメントは高畑サイドの言い分でしかない。にもかかわらず、相変わらず被害者は一方的にバッシングに晒されているのである。
本サイトでは、被害者のプライバシーを考慮しないセカンドレイプのような報道、梅沢富美男や千原ジュニアなどワイドショーのコメンテーターであるタレントたちの女性蔑視的な視線を批判してきたが、もうひとつ、今回の事件をきっかけに目を向けなければならない問題があると考える。
それは、司法において性犯罪はいかに“男性視点”で貫かれ、被害者の女性こそが裁かれる場になっているか、ということだ。
『逃げられない性犯罪被害者─無謀な最高裁判決』(杉田聡・編著/青弓社)によれば、まず、〈単なる通報はまだしも、加害者を告訴することははるかに難しい〉〈非常に多くの被害者が告訴をあきらめています〉と、性犯罪に遭った女性たちがいかに二次被害を恐れたり近しい人たちの関係性から告訴にいたらないかという現実が示されているのだが、もし告訴しても、被害者女性にはさらなるセカンドレイプが待っているという。
というのも、裁判では「レイプ神話」に基づいた被害者の「落ち度」が問題とされ、〈仮に強かん被害が公判に持ち込まれても、その「落ち度」のために加害者が無罪扱いされてしまうことがある〉からだ。