このような経緯については前述の初鹿議員も「SPA!」(扶桑社)16年5月31日号のなかで「今、大阪の彫師さんが裁判で争っていますが、あの摘発のもとになった厚労省の課長通達は、行政の傲慢そのものです。彫師がどんな手順で、どういう場所で刺青を入れているかも知らないのに、これは医者でなければできないと言う。そしてこれまで何十年も業として認められていた仕事を、通知一枚で突然禁じてしまうなんて、やりすぎです」との認識を示している。
行政がこのように「傲慢」な通達を出してきた裏には、刺青に対する偏見、「日本から刺青を彫る文化などなくなっても構わない」という考えがあるのだろう。彫師全員が医師免許を取るというのは現実的ではないし、では、現在医師免許を持っている医師が芸術性の高い刺青を彫ることができるかといったら、おそらく彫ることのできる医師などほとんどいない。そんなことは少し考えれば誰でも分かることだ。
だから、海外でも彫師に医師免許を必要とさせている国などない。初鹿議員はこう解説している。
「海外では「刺青は医師がやらなければならない」などと規定している国はどこにもない。許可制や届け出制を敷いて、行政が一定の権限をもって管理下に置いている」(前掲「SPA!」より)
ここ最近になり、ロック・ヒップヒップなどの音楽や、スポーツ文化からの影響でファッション感覚のタトゥーが若者を中心に広く受け入れられるようにはなったが、それ以前は刺青というと反社会勢力のイメージが強くあり、その印象は日本社会から現在も消えてはいない。
周知の通り、江戸時代から刺青は刑罰として用いられてはいたが、その時代の刺青は、遊女と客の愛情の印としての「入れぼくろ」や、火消し・鳶職人・飛脚といった職業の人々に愛されるなど、町人文化の「粋」として受け入れられていたものであった。
その潮目が変わったのは、明治以降。欧米人の目を気にした政府が警察犯処罰令により刺青を処罰の対象としてしまったのだ。これは第二次世界大戦後まで続き、「刺青は、禁止された七十六年の間にすっかり裏社会のものになってしまったのである」(宮下規久朗『刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ』日本放送出版協会)とされている。
しかし、そんな政府の対応とは裏腹に、日本の彫師たちの技術は欧米各国から高く評価された。東京外国語学校(現在の東京外国語大学)で教壇に立ったロシアのレフ・メーチニコフは明治7年に来日した際、「素晴らしいのは、こうした彫りものをした人々が、腰に巻いた秘めやかな手ぬぐいのほかにはなにひとつ身につけていないのに、見る者に裸体の印象を全然与えないということだ。入墨こそは裸の人間の衣服なり、と言うのもむべなるかなである」(前掲『刺青とヌードの美術史』)と語ったと言う。